Idea Idem Ideologie7 |
「ルック様、その『シエラ』という方は……」 厨房までわざわざ行くまでもない。 通りかかった侍女に来客の予定を告げると、ルックは足早に正門へと向かった。迎えに出るように言われてはいなかったが、彼女の訪問を知りながら無視したとあっては後でどのような目に遭わされるのか。想像したくもない。 「あんた、知らなかったっけ?」 気が向いたときにふらりと夜の宮殿に現れるシエラは結構有名だ。主に怪談のネタとして。 「ええ。クリスタルバレーに着任してまだ一年です。それまでは北の寂れた村に住んでいて、首都に行くのだと言ったら村中でお祝いしてくれるようなところにいましたから」 しかも、着任早々、神殿内でも遠巻きにされるルックの護衛官をまかされてしまった為に、未だに神殿内での人間関係……特に男女の域については弱い。 よく他国に誤解されがちだが、ハルモニアは神職に就く人間の婚姻を禁じてはいない。むしろ推奨しているといっていい。 ヒクサクの戴く<円>。循環する輪。巡る生命。生き物としての定め。 となれば、その筆頭に立つヒクサクが恋人を持ったところで何の異論も出ない。 神官長のくちから特定の女性の名前が出るということはもしや……と彼は考えたのだが、ルックはありえないねと断じた。 「さすがに始祖に手を出すことはないだろうし」 「始祖?」 鸚鵡返しの台詞に、ルックは傍らを見上げた。 「吸血鬼の始祖だよ。正確には、真の<月>の紋章の継承者だ」 「っき……」 最初の単語をなぞりかけたまま、絶句。あまりの衝撃にか、顔も一気に青ざめた。 わなわなと震えている拳を落ち着かせるように握りしめる。 彼の様子を見て、ルックは冷静に思った。どうやらこれが一般人の吸血鬼に対する反応らしい。確かに自分もシエラは恐ろしいが、多分にそのベクトルが違っているようだ。 「大丈夫だよ。あの方、好みにうるさいし、忙しいし」 君は好みだけど、手は出させないから安心してよ。 「忙しいとは……その、吸血鬼の王国を作ったりとか……ですか?」 「そういうことをしようとしてる馬鹿を潰すのに、だよ。あの方は各地で人間にちょっかいを出してる吸血鬼を始末して回ってるからね。今回はその報告じゃないかな」 数ヶ月前に彼女がクリスタルバレーに現れたとき、吸血鬼騒動が北のほうで持ち上がっていた。あれからシエラは騒ぎの中心にいた眷属を片付けたはずだ。 ルックにとってシエラの行動は当然の事実なのだが、護衛官にとってはそうではなかったようだ。 「あの、始末とは、一体。だって、同じ吸血鬼なんですよね?」 「あの方は確かに始祖で、吸血鬼の頂点にいる。けれども今の彼女は始祖としては、致命的な欠点を抱えてる。これについては僕からは言えない。ただ、はっきりとわかるのは、あの方は夜の民と昼の民が憎しみ合って削りあうような状況を作りたくはないということくらい」 だから、人間の世界を徒に脅かす同胞を始末する。 「まあ、助かるといえば助かるんじゃない?人間がわざわざ危険を冒して吸血鬼退治をしなくてもいいんだから」 軽く言うとルックは眉をひそめた。ああ、失敗した。 この距離だと……。 彼の後悔をあざ笑うタイミングで、華奢な人影が太陽を背に現れる。いくら逆光で顔が見えなくても、そのシルエットと溢れる魔力。誰何するまでもなかった。 「月の始祖様」 ぎくりとルックが呟く。 単語に、少年の半歩後ろをついて歩いていた護衛も止まる。もっとも、彼の場合、現れたのが予想を違えた相手の容貌と初めて聞くルックの動揺の声のせいだった。 「ほほ……、色々と面白いことを言うてくれておるな」 からかう声音で近づくと、ついとルックの顎に指をかけて軽く持ち上げる。予想に反して、彼が抵抗する事はなかった。 「そんなに善意の献血をしたいと申すか。殊勝な事じゃ」 「次の仕事を肩代わりしてくださるのでしたら、喜んで」 「次の仕事……?」 呟くと、少女の指はそのまま頬を滑って離れた。 「遠慮しておこう。仕事優先のそなたがいとうようなもの。碌ではあるまい」 「お察しの通りで」 「では、こちらもお預けか」 「そうして下さい」 悔しそうにシエラはルックの背後に控える青年に目をやった。典型的なハルモニア一等市民の容姿をしている彼は非常に彼女の好みであったのだが、ここで手を出せば少年の不興を買うだろう。別にその程度、歯牙にかけるほどではないが、これからの事情を考えれば下手に彼を刺激するのはまずい。 「ふむ、好みなのだが……」 しみじみとした呟きに男が一歩引く。 やっと居着いた護衛官にいなくなられては面倒だと、ルックは珍しく会話を切り返す。 「ところで、ヒクサク様にはどのようなご用事で?」 「同胞……のようなものが起こした事件を一つ片付けた。その顛末について耳に入れてやろうと思っただけ」 「ご苦労様です。北の吸血鬼騒ぎですか」 頷くシエラにルックは話を切り上げようとした。どうせそのうち、神官長を通じて情報をくれるだろう。それにシエラが離反組の吸血鬼を始末しているのは当然のことで、今更深く聞くまでもない、面白みのない事実だったからだ。 もっとも、そう思ったのはルックだけだったようだ。 本物の吸血鬼を目の前にして、彼の護衛官はいささか興奮していた。 「あの、北の吸血鬼というのは……」 「ほう、興味があるかえ?」 「い、いえ……。このハルモニアで吸血鬼騒動なんて……」 「心配せずとも事件は片付けた。安心するがいい」 よそいきの顔で微笑んだシエラの顔を直視しないようにルックが重ねる。 「そういえば、あんた、北の出身だっていってたっけ?もしかして、地元?」 言いにくそうに護衛官は続けた。 「……話を聞いた事がありますので」 「そう。でも、シエラ様が退治したっていうんだから、もう被害は出ない。安心すると良いよ」 「……そうですね」 どこか間のある返事は、故郷の家族を思っての事だったろう。 会話が途切れたのを感じて、シエラはヒクサクを待たせるのもぞっとしないと神殿の奥に消えて行った。 その背中を見送りながら、男はルックに尋ねる。 「まったく、吸血鬼っぽく見えませんね」 「そうかな。僕なんか、あの方の吸血鬼っぽいところを見た回数の方が多いくらいだよ」 人の血を吸おうとしているところとか、自分に噛み付くところとか、昼間眠そうにしてるところとか。 しかし、ああとルックは思い出す。 「マリィ家の人間とも手を組めるのはすごいかもしれないね」 かの家は吸血鬼ハンターの一族である。しかも、数年前に吸血鬼・ネクロードによってその係累がほとんど途絶えてしまった。 利害が一致したからとはいえ、天敵同士、共闘する事ができるのは驚きに値する。 似たようなものでも、ルックだったらササライと手を結ぶのなど絶対にごめんだ。 「吸血鬼を殺す人間と、吸血鬼を殺す吸血鬼ですか」 「うん」 「でも、始祖というくらいですから、他の吸血鬼においそれとやられてしまうことはないんじゃないですか?」 歩き出したルックは、付かず離れずの一歩後ろから問いかけられる。 「そんなことはないんじゃないかな。……吸血鬼が他の真の紋章の継承者と手を組んでいる場合もあるし」 たしか、赤月帝国でも吸血鬼騒ぎがあったはずだ。あのとき、<門>の継承者たるウィンディと同盟とまではいかないものの、共犯のような関係だった。 「普通の人間からすれば、始祖もそうでないのも一括りの『吸血鬼』だし。これで下手に剣とかあったら死ぬかもだし」 「……真の紋章の継承者で、しかも吸血鬼でも死ぬんですか?」 「そりゃあ、死ぬよ?」 間髪入れずの肯定。 振り返るルックの表情は、微笑み。 「僕だってね。だってそのために、あの剣を手に入れてきたんだから」 放たれる言葉とは裏腹の清々しさに、男も微笑んだ。 「では、そのうちに試してみます」 止めるでも諌めるでもない内容に感心しながら、ルックはそのまま正面に顔を戻した。 「じゃあ、午後の予定を確認しようか」 「それで、彼はものになったのかい?」 吸血鬼騒動の顛末より先に聞かれたのは、若い継承者のこと。 本末を転倒したそれにシエラは眉をひそめる。彼女がこうしてここにいるということから、吸血鬼がらみの事件の内容など聞かずともよいと判断したのかもしれない。だが、今までのヒクサクは形式的ではあっても、要を軽んじる事はなかった。 否。これも、軽んじているわけではないか。 女は薄く笑んだ。 こうしてここに来たのは、確かに報告の意味もあるけれど。それ以上、リン=マクドールのことがあるからだ。そう考えれば、訪問の目的は簡単にひっくり返り、ヒクサクは的を正確に射てきたといえる。 「入り口までは連れてきた。気がついたであろう?」 「まあねえ。前に比べれば格段に良くなったとはいえ、私からは完全に逃れられないよ。特にクリスタルバレーではね」 「承知の上よ。……及第くらいはつけても良いかの?」 「そのくらいならね」 改めて運ばれてきた茶菓子は、色とりどりの金平糖。それをつまんで、ヒクサクは手のひらのうえで転がした。 子供の手遊びのようなそれを呆れたように眺め、シエラは頬杖をついた。 「月の姫。彼がうちの子にこだわる理由を聞いたかい?」 「さてな。興味がないといえば嘘になるが、正直に答えるとは思えなんだから、放っておいた」 ゆるりと首を振っても、ヒクサクはがっかりした様子など微塵もない。 その姿に彼女は確信する。 彼は知っているのだと。 「して、どうするつもりだ?お主の性格じゃ、容易く会わせるようなことはしないであろう?」 真の紋章の継承者という肩書きがあれば、簡単に円の宮殿に仕官することはできる。武にも文にも優れているから、組織のどこに組み込んでも重宝するだろう。紋章制御についても問題は解決済み。あるとすれば外交面でだが、赤月帝国改めトラン共和国はハルモニアから見てはるか南。国境を接しているでもないし、混乱が収束したばかりの国ではこの超大国に迂闊に手を出してくる余力はないだろう。現時点では。 「もちろん。しかし、赤月帝国を滅ぼした男ね。巡り合わせとはいえ面白い」 あれをご覧とヒクサクが指さした先には一振りの剣。 「お前の主を殺した男が来るそうだよ」 呟きは<覇王>に向けて。 「その男に、お前の新しい主を探させようか?」 冗談にしては質の悪い。が、ヒクサクの瞳には本気が窺える。 紋章にしてみれば仇ともいえる人間を寄越そうとする男に怒りを覚えるだろう。 「神をも畏れぬ所行」 ぽつりと零れたシエラの言葉を聞き留め、咎めずに応える。 「神、ね」 真の紋章は神だ。創世神話より続く、神。世ではそう通っているし、ヒクサクとて反論するつもりはない。ただ、他の人間が知らないことを少しばかり余計に考え、知っているだけだ。 「なんとでも言うが良いさ。この国では私が神だよ」 「別にお主の行動にいちいち口を挟むつもりなどないわ」 「この世界で貴重な年長者のご忠告としてこころには留めておこうか」 「女性の年齢について、あれこれ言うなと習わなかったのか?」 「なにぶん、昔のことでねえ」 わざとらしく笑いながら、ヒクサクは話題をリンに戻した。 「月の姫から見て、彼はどのような人間だったかい?」 「面白い」 「そう。それは結構」 そっけない評価。 手のひらで転がしていた砂糖菓子を指先でつまんで持ち上げる。 尋ねておきながらの無関心とも言える態度にシエラの機嫌が急降下した。男の顔をねめつけて、しかし次の瞬間には文句の気力も萎んでしまう。 「それ以上、聞こうとはしないのかえ?」 「どこをどう聞けと?すぐに呼びつけるんだから、必要ないじゃないか」 指と指の間にあった金平糖が潰される。 不揃いな紅い欠片が神官長の手の中を零れていった。 *** 親愛なるお兄様 立て続けのお手紙、申し訳ありません。 けれども、どうしてもお知らせしなければならないことがわかりました。 もう手遅れだったのです。私たちの困難は、最悪の形で決着がついてしまいました。お嬢様には最後まで相談できませんでしたが、相談したところで無駄だったこともわかりました。葬儀まで済んでしまっていたのです。 故郷にも確認したところ、屋敷にいる私の立場を考えて知らせをくれなかったのことでした。家族だというのになんていうことでしょう。きっとお父様もお母様も、あの子のことについて屋敷に知られると私の出世に不利だと、のみならず恥ずかしいことだと思ったのでしょう。 そのことについて詳しくお知らせしたいのですが、いつであれば都合がよろしいでしょうか。 とりあえずの怒りは、次の休みに神殿へ文句を言いに行って晴らしてくるつもりです。 それでは。 あなたの妹、シャルテ <2007.4.18>
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