Idea Idem Ideologie5 |
「文句なしに綺麗な奇蹟というのは、存在しません」 それは微笑んだ。 「だって、奇蹟とは、本質的には歪んでいるものだから」 ほら、自分のように。 告げて胸に手を当てる姿は、それこそ奇蹟のように美しかった。 *** 親愛なるお兄様 元気でお過ごしでしょうか。 こちらはだんだんと暖かくなってきました。円の宮殿はいかがでしょうか。 私は仕事も順調です。この頃では、お嬢様の愚痴を聞く事もできるようになりました。 この調子で行けば、私たちの困難について、お話だけでもできる日が近々くるかもしれません。 期待するなと怒られるかもしれませんが……。 お嬢様のことも含めて、お話ししたい事がたくさんあります。けれどもお兄様もお忙しいのですから、神殿でお兄様に届くようにお祈りすることにします。 恥ずかしいので、柱の影でこっそりと。 次に神殿に行くのは三日後ですから、その日の夜の夢を期待していてください。 それでは、お元気で。 あなたの妹、シャルテ *** 多くの識者は語る。 曰く、ハルモニアの現人神は久しく……数十年もの間、民の前に姿を見せない。神といえども元はヒト。 既に彼はこの世のものではなく、ハルモニアの上層部が真実をひた隠しにしているのだと。 あるいは別の説もある。真の紋章の強大なちからに取り込まれた神官長が、不老だけではなく永遠の命を得る為に、 あるいは正真正銘、神に成り代わる為に禁忌に手を染め、結果として人前に二度と出られぬ姿になってしまったのだと。 様々な類型があるものの、集約すれば大概どちらかになる。 噂が噂を呼びながらも、神殿がそれらを否定する事はない。 「ヒトの噂というのは面白いねえ」 しみじみと呟くのは、噂の当人だ。 「出られないのは仕方がないとしても、否定くらいなさってください」 「否定だけしても逆効果だよ。それに二度と人前に出られない姿って言うのは間違っているが、禁忌の研究云々は当たらずとも遠からずだ。ねえ、ルック」 そうだろうと同意を求められても、彼には溜め息をつくことくらいしかできなかった。 世間一般が想像している『禁忌』とは違うだろうが、自分がその『禁忌』であるのは明らかだったからだ。 「まあ、これだけ言われていても人前に出ろと強要してくるのがいないことは良い事だ」 いくらハルモニアが広いとはいえ、限界がある。 その限られた地域のなかに意図的に真の紋章を集めているのだから、魔力的に敏感な者にとって、そこに立つだけでも気を消耗する状態。 魔力に突出したヒクサクとて、否、だからこそ、例外ではなかった。おいそれと自らの結界の内から出る事も適わない。 出ればそれだけで、ハルモニアが狂う可能性がある。世界の力場が狂う可能性すらも。 円の宮殿である程度以上の地位を賜っている重鎮たちはそれを承知している。それで、国にとって不利益としかならない噂も放っておく。 一時期は影武者を置こうとの案も出たらしいが、闇に流れて今に至る。 「独裁政治の頂点が何を言っているんです」 出された紅茶はちょうどよく温まっている。喉を湿らすと、ルックはようようと本題を切り出した。 「で、お呼びになったご用件は?」 「いや、そろそろ『アレ』をどうにかしようかとね」 ヒクサクが顎で示した先には、一振りの剣が無造作に転がっていた。 物騒な白刃。鞘に納まってすらいない。黄金の鍔。黄金の束に埋め込まれた真紅の宝玉。絡み付く竜。 見覚えがありすぎるかたち。 「……」 「どうした、ルック」 「アレ……って、竜王剣ですよね?」 あんな風に落ちていますが。 絨毯の上に置いたのではなく。明らかにどうでもよさそうな、適当な感じが漂っている。 「いくら<門>のついでとはいえ、人が苦労して手に入れたものを、随分な扱いしてくれてますね」 赤月帝国への潜入は、時間も密度もかけている。あの日々を馬鹿にされたようで気に入らない。 不快を表した口調はしかし、どこか拗ねたような響きになってしまった。それがますます気に障り、ルックは誤摩化すようにまたカップを動かした。 「そうでもない。あそこまで運ばせた私を誉めて欲しいくらいだ。アレが真の紋章であると知っているから、誰もまともに触れようとはせぬ」 紋章同士の干渉を避ける為にヒクサク自身が手にするわけにもいかず、かといって信頼に値する人間は紋章の呪を知っている。選ばれては大変だと躊躇う。 「まったく、野心のないのも考えものだな」 剣に宿る真の紋章、<覇王>の紋章に選ばれれば、まずハルモニア内での地位が確約されるとは思わないのか。 「クラナッハ=ルーグナーの行いを考えれば、慎重にもなるでしょう」 主のぼやきに、ルックは冷静に返した。 <覇王>の主は過去にハルモニアから離反している。 何より。 「それの呪は受けたくはないですからね、僕だって」 主が愛するモノを守る力を与えるのと引き換えに、最も愛する者を得られない。 そんな紋章はルックだってお断りだ。 当然の思いをくちにしただけだが、ヒクサクの表情がおもしろそうに歪む。 「何ですか」 「いや、おまえがそんなことを言うとはね。意外だっただけだ」 少し前のルックであれば、<覇王>の呪など『どうでもいい』ことに分類されていただろう。まったく、子供の成長には驚かされる。 もっとも彼が素直にそれを受け取るとは思ってもいない。そもそも、そのような考え方の変化になど自分では気がついてさえいないだろう。 自ら思い当たったときの反応は面白いかもしれないが、わざわざ自覚させる必要もない。 盛大に反論される前に他の話題を持ち出して、先制。 「さて、その竜王剣をそのまま放っておくのも資源の無駄だ」 真の紋章を資源と言い切る神官長。その感性に呆れつつも、確かにその通りとルックは頷いた。 せっかくの真の紋章であっても、そこに放置しておくだけであれば宝石の原石と変わらない。無用の長物。 「どうします?無名諸国かグラスランドに持ち込んで、適当な継承者が出てくるようにでも手配しますか?」 闘争を、紛争を、戦争を、あらそいを。 真の紋章を持つに値する者が現れるような土壌を耕すか。 いつものハルモニアのやり方の一つを挙げたが、ヒクサクは即座に否定した。 「それはまずかろう。第一、グラスランドとは約定を違えるわけにはゆかぬ」 「……ああ、そういえば」 ルックは思い当たる事項に頷いた。あの草原の国と、正確にはあの土地が生み出した継承者だった男と、ハルモニアは密約を結んでいたのだった。 古い約束を覚えているものなどほとんどグラスランドにはいないだろうが、約束は約束であり、 ヒクサクが<円>の紋章のもとで決めたことであれば、守らねばならない法である。 「無名諸国は手綱をとるのが難しい。あそこに落とせば最後、どこへどう流れて行くのか見当がつけられぬ。動きを掴めぬようであれば取り込む事もできぬ。無理だな」 「他に手頃な国はないと思いますが」 本国がきちんと管理した上で、紋章を泳がせるのであれば、あまりに離れた土地へ放すわけにもいかない。 しかし、ルックの心配などヒクサクにとっては些末なことだったようだ。 こともなげに言う。 「何も国外に持ち出す必要はなかろう。国内で適当に継承者が見つかれば、しかるべきように紋章が動くだろう」 「要は、来るべき日にハルモニアが紋章を制御できれば良いということで?」 「そういうことだ」 適当な候補者を集めるように。 告げられた内容にルックは頭を抱えたくなる。 前代未聞。 真の紋章の継承者の募集。 何かの報酬として紋章を下すというのならばまだしも、ルック以外の神官将や長老たちにはどう納得させろと。 そんな方法で巧く継承者が現れるものか。ああ、数で稼げということか。 いや、その前に。 ……この場合、その段取りも自分がやるのか? 気がついてルックは暗く確認した。 「念のために聞きますが、ご冗談で済ますつもりは?」 「愚問だ」 言下に却下。 いっそ清々しい。 手配するこっちの身にもなれ。 こぼれかける言葉を呑み込んで、ルックはこれ見よがしの溜め息を盛大に落として立ち上がった。逃げようがないと理解しているが、精一杯主張しておく。 「かしこまりました。僕がやると色々と周りがうるさいような気もするのですが」 「真の紋章に関わる事項を、そこらの神官将に任せるわけにもいかないと思うが?」 「これでも新人なんですが」 「生まれたときから円の宮殿にいるお前が何を言う」 逃げ台詞さえも適当にあしらわれ、ルックはくちを噤んだ。もうこれ以上、何も言うまい。 黙り込んだ少年に、男は喉で笑った。 「心配せずとも、審査方法くらいは私の方で考える」 「その程度は働いてください」 受け流されるのは承知のうえだが、言わずにはいられない。 案の定、くちもとを和らげるだけの微笑が神官長の回答だった。 扉を開けて、外に控えていた護衛官に話しかけようとした彼に、ヒクサクはふと気がついたように呼ばわった。 「ルック」 返事の代わりにちらりと見遣れば。その不遜な態度に特に気分を害した風もなく、神官長は続ける。 「シエラが来たようだ。厨房に行って、茶菓子を追加するように言っておけ」 「……子供のお使いですか」 <2007.4.11>
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