奏幻想滸伝
          Idea Idem Ideologie3


「ふむ、面白いものがあるのう」
 クリスタルバレーの治安は良い。深夜であっても犯罪は少ない。
 だからといって女性の独り歩きは流石に狙ってくださいというものだ。ふんわりとしたブラウスとスカート、加えておっとりとした美貌の少女となればなおさら。
 だが、そんなものは彼女にとっては気にするまでもない。まったく淀みない足取り。
 と、案の定。
 彼女の進路をふさいだ者があった。
「よう、嬢ちゃん。ひとりかい?」
 酒と祭りの気分に気が大きくなったらしい男だった。中年のひげ面で、彼女の好みではまったくなかった。筋ばっているし、肌は日に焼けて硬そうだし、まずそうだった。
「先を急ぎますので」
「こんな時間に急ぐも何もないだろう?」
 言葉で躱そうとしたが、腕をぐいと掴まれた。
 迷惑を隠さずに、彼女は顔をしかめた。
 まったく、どうしてくれようか。確かに急いでいるわけではないが、こんなののせいで時間を無駄にしたくはない。さっさと宿に入って、朝に備えなければいけないのだ。
 ただし、人間のちからなんてたかが知れている。少女はやんわりと腕を掴む指を引きはがし。
「妾は急ぐというておろうが」
 逆にねじり上げる。
 男は信じられないという風情で自分の腕を見ていた。だが、どうやら酒のせいで痛みにも鈍くなっているようで、上玉の獲物と認識する少女に今度は逆の手を伸ばそうとした。
 不快に少女が双眸を細めた。
 とさりと彼女の手にあったトランクが地面に転がる。空いた手が空を泳いで男の額を差した。
「しつこいわ」
 その手に刻まれた紋章が煌めく。詠唱も何もないまま、ぴしり空気が鳴った。光が夜を裂き、男に落ちる。
 直撃した雷にぱたりと打ち倒されるのをつまらなさそうに眺める。人間は嫌いではないが、こういう輩にはダメだ。
 やはり、夜中だからと遠慮せずに顔なじみに会いに行った方がいいのだろうか。 同じ、でも毛色のまったく異なるふたりの顔を思い出して考えるが、さすがに一連の式典が終わったばかり。今夜は止めておくべきだろうと結論を下した。
「それに、こちらも気になるからの」
 てくてくと発信源に向かう。
 片付けられなかったハーブが靴で散らされる度に芳香。
 ここまで計算してのことだとしたら、以前から分かっていたことではあるが、あの子供はかわいげのないところまで創造主に似てしまったらしい。
 そんなことをぼんやりと思いながら、一件の宿の前で足を止めた。
 中の下。外国の商人などが仕入れの際に使う長期滞在型の店だ。
「ふむ。代替わりしたのは間違いないようじゃ」
 少女は呟く。彼女が知っている<ソウルイーター>の主は、放浪中はこのような宿には泊まらない。漂流するしかない身の上と知りつつも、民家に腰を落ち着けるのが常だ。
 あの男をしつこく狙っていた<門>の魔女の片割れは死んだようだと噂に聞いた。
 赤月帝国での革命の立役者、筆頭将軍家の子息の右手に真の紋章を見たとの噂も。
 噂ではなくて、真実だった。それだけ。
 真の紋章が主を転々とする度に覚える一抹の寂しさを羽毛のように感じ、少女は入り口を押す。鍵は開いていた。
 夜遅くに商談を抱える商人を迎えるためだろう。深夜に近い時間だったが、受付には灯りも灯っていた。
「あの……泊まれますか?」
 番をしている男に遠慮がちに尋ねれば、眼を見開かれる。こんな時間に門をたたく客の容姿としての範疇からはみ出していたらしい。
「こんな時間になんて、大丈夫だったかい?お嬢さん」
「とっていたはずの宿が手違いで急に泊まれなくなってしまったんです。大丈夫と信じて知人と話し込んでしまって……こんな時間に」
「それはお気の毒に」
 同情の表情を浮かべる男に、逆に少女は内心で同情を覚えた。ハルモニアの一大行事である今日に部屋が埋まっていないなんて。 よほど商売が下手か、宿自体が良くないか。前者でありますように。
 ペンを手にとって宿泊簿に名前を記す。
 左手に浮かんだ紋章に男は眼を止めると、「雷鳴の紋章を使えるような魔術師であれば安心ですね」と繋いできた。
「この程度では足りんわ」
 さらりとインクを滑らせながら、少女は呟く。
 低い口調に男が「え?」と聞き返してきたが、それは微笑みで躱した。
 そう、まだまだ。この程度では足りない。いかに五行の上位紋章であっても、遥か昔に奪われた真の紋章と比べようなど。片腹痛い。
「そういえば、うちの宿にずっと泊まっているお客がいるんですが、彼も紋章に通じているようですよ」
 少女が魔術師であると思い込んだ男は、さきほどの剣呑な気配を感じとれなかったのか、ぺらぺらと続けた。
「そうなんですか。その人はどんな紋章を?」
 インク壺にペンを戻し、少女は社交辞令で問う。国が国だ。ハルモニアには優秀な魔術師がよく転がっている。
「それがですね。わからないんですよ」
「わからない?」
「ええ、右の手をこう」
 男はぐるりと右手の周りを左手で覆った。
「包帯で巻いているんで。ただ、感じとれる魔力が普通じゃなかった」
 お嬢さんとは話が合うのでは、と締めくくろうとして男は帳簿を見た。さすがにいつまでもお嬢さんは失礼だ。未だ乾かないインクで、どこか古く装飾めいた文字。
「シエラ様とお話が合いそうではと思ったのですよ。彼もまだ滞在するようですから。機会があればお話しになっては?」
「そう……」
 男の朗らかな声に、銀の髪の女は微笑んだ。
「それは気になりますね」
 見せない紋章。隠された紋章。そんなにあからさまで、大丈夫なのだろうか。その新米継承者は。
「そのお方のお名前は?」
 シエラの微笑につられて、男は帳簿を繰った。だいぶ頁を遡って、ひとつの名前を指差した。
 そこには貴族らしい流麗な綴り。
 リン=マクドール。



 無駄に目立った。
 自覚して、ルックはヒクサクの頭をはたいてやりたくなった。
 神官長命令となれば断れない。それを見越して通達はしていたのだろう。規定と異なる色彩をまとっていても注意されることはなかった。
 が。
 注意と注目は当然ながら異なる。
 青一色の色彩のなか、鮮やかな緑は目立つ。
 おかげで、ルックが望んだわけでもない服装についてやたらと厭味を言われる。だいたいが中堅の連中だ。 幼い頃からであるが、ルックに文句をつけてくる連中の年齢層はそのくらいだった。 新米は詳しい背景がわかっておらずに手を出そうとしないし、 老いてくるとそうするだけ無駄だと悟るうえに神官長には「何か常人には及ばない考えがあってのこと」と開き直るらしい。
 ともあれ、朝の会議で好奇と刺が混じった視線を浴びたせいでルックはすこぶる機嫌が悪かった。
「……ルック様」
「なに」
 名前を呼ばれて顔をあげる。
 護衛官としてつけられた男が困ったように微笑んでいた。
「そんな険しい顔をなさっていると何事かと思われますよ」
「勝手に思ってれば良いだろう」
 他人の憶測にまで付き合っていられるほど、ヒマではない。それにこの男はルックが神官将に任命される前からの顔見知りでもある。 こちらの性格など知り尽くしているだろうに……。
 反論にも護衛官は表情を崩さない。
「今まではそれで良かったかもしれませんが、神官将ともなりますと注目度が違いますからね」
 他の方々は未だぎこちなくて初々しさがあっていい、らしいですよ。
 無茶な要求をルックは鼻で笑い飛ばした。
「生まれた時からここで暮らしてる僕が初々しかったらどう思う?」
「まあ、怖いですね」
「だったら言うな」
 足音荒く歩き続けるルックを制する。
 そっと男が指差した方向を見れば、紺と白を基調とした同じ服装の群れが見えた。年頃はルックと同じくらい。
「でも、ああいう学生さんにはわからないですからねえ。高貴で清廉で潔癖な印象を壊してはいけないと思いますよ」
「何それ」
 耳慣れない単語の羅列にルックは足を止めざるをえなかった。それは自分のことだろうか。「潔癖」というのはときどき言われることではあるが、他の単語は一体なんだ。
「昨日のパレードを見学して、士官学校の学生さんたちはそう思ってしまったようですよ。ルック様を良く知っている人間にしてみれば晒し者にされているようで不機嫌だっただけだとわかるのですが、やはり「奇蹟の子」となると険しい顔も素晴らしい解釈ができるようで」
「で、もしかして執務室に行くためにはあの群れのなかを行かなくちゃならないわけ」
 自分の存在は。奇蹟だとすれば、これ以上、醜悪な奇蹟もあるまいに。
 知らないということは恐ろしいものだと溜め息をつく。
 そのときだった。
 どうやら学生たちがこちらに気づいたらしい。
 ざわりとした空気の揺れ。風が囁きを徒に運んでくる。おい、あれって。間違いないよ、あれが真の紋章の継承者。奇蹟の。
 うるさい。いらないよ。
 眉をひそめて意識的に音を遮断する。さてどうやって通り抜けようかと思案する。
 昨夜のうちにヒクサクにも生徒たちにはなるべく近づかないようにと釘を差されていたし、自分もそのつもりだった。
 であれば、急ぎを装って過ぎ去ってしまえば良い。
 単純に結論が出た。
 歩調を早めたルックに、護衛官もその意図を汲んだ。
 ただし、当の標的は理解してくれなかった。
 ずんずん接近し、視線を合わせないようにしていたのに。
 緊張にうわずった声がルックの足を強制的に止めた。
「あ、あの!」
 面倒くさそうに視線をやる。硬い翠の視線にたじろいだようすを見せたが、声の主である少年は気がつかなかったようだった。
 年はルックよりも年下に見えた。こんな年齢で円の宮殿を視察して何がわかるというのだろうとも思ったけれども、それだけ優秀なのかもしれないと思い直す。 幸いにして、ルックは彼らが強運によってこの場にいるという事実を知らなかった。
「し、神官将就任、おめでとうございます!」
「……ありがとう」
 どもりながらの声に無難な返答。
 無視されなかったという事実に遠慮がやわらいだのか、声が連続する。
「あの、そのお年で神官将になられるっていうのは、どういうお気持ちですか?!」
「ぼ、……いえ、私は将来、奇蹟の御子の副官になりたいのですが!」
「我が国の将来について、どのようにお考えですか?」
「真の紋章を集めると我が国の政策は……」
「神官長猊下は、ここ数十年民のまえにお姿を現してはいらっしゃいませんが、それについてはどのような……」
 エサを前にしたひな鳥のような状態。しかも、意味不明だったり、あからさまに答えられない質問が混ざっていたりする。
 執務のために移動中の神官将の足を止めるなど言語道断。
 さすがに生徒の引率とルックの護衛官が生徒たちを諌めようとしたところだった。
「あの、ルック様!」
 ひとりの神官が汗を拭きながら会話に割り込んだ。息が乱れているところを見ると、どうやら相当の距離を駆け回ってきたらしい。
「なに?」
 この混乱をどうにかするにはこれ幸いと、ルックは視線だけでなく身体ごとそちらへ向き直った。
「それが、……神殿の門に怪しい輩が……」
「単に怪しいんなら追い払えば良いだけだろう?僕に意見を求めるのはどうして?」
 至極当然の疑問を言葉にすれば、さらに神官は汗を拭う動作をした。
「それが……彼は自分のことを『真の紋章の継承者』だと主張していまして、あろうことかルック様を名指しいたしまして面会を希望しています……」
 いかがいたしましょう?
 尋ねられて、相手が誰なのかを考える。
 彼、というからには昨夜手紙をよこしたシエラではあるまい。今は真昼だし。
 すれば、心当たりはもうひとつ。
(馬鹿正直に正面から来るとは)
 クリスタルバレーにいる段階で自由でいられる意味を考えているのか。
 神官長に望まれていないという事実を。
 うっすらと冷笑を浮かべて、ルックは神官に命じる。
「追い返して」
「はい?」
「真の紋章の継承者がこのクリスタルバレーにいて、ヒクサク様が御静観なさっているわけがないだろう」
 だから、それは偽物に違いない。
 もっともな説明に神官も頷いた。
 その通りにいたしますと威勢の良い返事とともに戻っていく。
 今のやりとりで会話が途切れたそのどさくさにまぎれて、ルックはすたすたと歩き出した。
 長居は無用。
 まったく。
 継承者が正面突破で来るか?
 紋章にまつわるハルモニアの噂を聞けば、牢屋に入れられるだとか、無理矢理に紋章を奪われるだとかは考えなかったのか。
 赤月帝国の戦乱でさえも、遥か数百年前のハルモニアの紋章狩りに端を発していたのだ。
 トランの英雄であれば、深く理解しているはず。
 だからこそ、自分の身をエサにする作戦を思いついたともいえる。
 しかし。
「どうしました、ルック様。複雑な顔をしておいでですが」
「そう?いつも通りだと思うけど」
「他の者が見ればそう言うと思いますけどね」
「……あんたが言うんだから、そうかもしれないね」


 そんな単純なやり方じゃあ、会ってなんかやらないよ?


<2006.10.9>


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