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「で、何の用だったんですか」 差し入れを堪能したあと、ルックはひたりと相手を見据えた。 いくらなんでも、これだけのために彼がわざわざ夜中に訪問するとは考えていない。 「いや……ね。ちょっとした牽制のつもりだ」 企んだ、薄い笑み。 『何への』と尋ねるのは浅はか。自身を取り巻く状況をしてみれば、あって当然と予想される気配――隠しきれない殺気がまったく部屋になかったのだから。 いくらなんでも神官将に任命されたその夜に暗殺されるなんてありえない、と。 そう楽観的になれるような状況にルックは置かれているわけではない。 しかし、心遣いを嬉しく感じつつも。彼は相対する神官長と似たような、あるいはさらに挑発的な色をくちびるに乗せた。 「これでも自己防衛くらいしてますよ?」 それはもう容赦なく、徹底的に。 過剰防衛に違いないほど。 そんな少年の様子にヒクサクは止める素振りなど見せない。逆にどこか楽しそうな表情をする。 「おまえがそう言ってくれる日が来るとはね」 空になったカップを掲げ、ルックがそれを大切に持ち帰ってきた日を思い出す。 華奢な白磁はハルモニアを祖とするものだが、施された金彩、紅を中心とした花々は遠い南のトランの地の意匠だ。 どうやら、当時は気が進まなかったがルックを赤月に遣ったのは正解だったようだ。以前のルックであれば、その言葉はなかっただろう。 死んで当然の命だからと、それが定められた運命だと、形ばかりの抵抗しかしなかっただろう。 事実、ヒクサクが知る少年はその通りで、だからこそ、ヒクサクは彼に『約束』という簡単に死なせない理由を課した。 まだその約束は生きているが、今のルックであれば約束がなくとも容易く自らを放棄することはないと信じられる。 赤月帝国で何があったかは彼に持たせていた『守護者の眼』を通じて大まかには理解している。 <門>の紋章の表を受け取ってしまったことも含めるかは微妙だが、そこでの出来事はルックにとって良い方向に働いたのは間違いない。 もっとも、当の本人はそんな自分の変化には疎い。今もヒクサクの表情の変化を訝し気に追っていた。 こうなってみると、<生と死>の紋章の先代の継承者に会わずに終わってしまったことが残念だった。月の長老とも親しかったようだし、さぞ面白い人物だったとみる。 そんな楽しい人物が直々に選んだ後継者なのだ。今代の<生と死>の継承者も期待できる。 もうすぐ、会えるだろうか。 ハルモニアにいるのは分かっている。それもクリスタルバレーにここ数ヶ月近く腰を落ち着けている。 この国はヒクサクの掌のなか。真の紋章ほど強大な存在が感知できないわけがない。 それでも手を出さずにいるのは。 「何なんですか、いったい」 急に言葉を途切れさせた神官長に向かい、ルックは首を傾げる。 身体的には一番近い存在だけれど、思考の面でそれを感じたことなど一度もない。今もどこか遠くへ投げられている視線の先にあるものの見当もつかない。 何を考えているのかわからない……。 連鎖して、ルックは昼間の気配を思い浮かべた。 退屈なだけのパレード。 市民へのお披露目は、いざというときに彼らを動かさねばならないときへの布石の一環だと理解をしてはいるものの、 道の両脇を黒蟻のようにびしりと固めた光景に気持ちが悪くなりそうだった。 かといって不快そうな顔をするわけにもいかず、なんとか表情を固めてやり過ごした。 見ていた民衆はおそらく、初めて表舞台に立つ緊張からだと勘違いしてくれているとありがたい。 そんななか、急に感じた魔力の揺らぎ。 知らないものではなかった。 いつか身近に触れたものだった。 それが問題だった。 神官将に登用されるための『試験』で赤月帝国で、遠く。時に近く在った魔力。 かの地の争乱の元となった真の紋章と、争いの手綱を握っていた継承者。 直接に会ったことは一度しかないが、間違いなくあの魔力の感触は彼のものだ。 トランにいれば、目の前の神官長のように永きにわたる支配者になったかもしれないが、その後の情報によると大統領の椅子を蹴って出奔したとか。 現在までの足取りは、ルックの持つ情報網にはひっかかってこなかったのだが。 灯台下暗しとはまさにこのことだ。 よりにもよってクリスタルバレーに御滞在中。 魔力が身に触れた途端、それまで被っていた無表情を落としそうになった。 どういう手段を使えばこの短期間でハルモニアに来られるのか。人間や獣の足では、到底辿り着ける距離ではない。 驚いているあいだにも気配は抑えられた。 が、彼が去ったわけがない。まだ街にいるはずだ。 なのに完全に放置している。 この部屋にヒクサクの姿を見たときには、ちらりとその件についての話でもあるのかと思った。 今のこの国で真の紋章の扱いに長けているのは、ヒクサクに次いで自分。さらに、神官長とは違ってルックは真の紋章の器として存在している。 先の<門>の紋章、<覇王>の紋章のような形なら複数の紋章を同時に手にすることができる。 数百年前の<門>の紋章のような執着を見せたかと思えば、<月>や<夜>のように微塵も注意を払わないものもある。 その選定基準がわからない。 <生と死>はどちらの範疇に入っているのだろうか。 下手につつくのは止めておこう。 ルックは決めた。 主が言い出さない限り、<生と死>は捨て置く。何の目的があって、どうやってハルモニアまで入り込んだかは知らないし、知りたいとも思わない。 招き入れてなどやらない。 いくらテッドの親友だからといって、そこまで気を遣ってやる義理はない。自分にとっては、ほんの一度だけ会って、宿星に巻き込まれただけの関係だ。 それも立場を考えれば、あの土地にいたなかで資格を持つ者がいなかったから適当に選ばれたんじゃないかと思う程度の。 だから。 自力で辿り着いてみせろ。 まったく異なる思考の末の、結論だけはどちらも同じだった。 神官長は長居をする気はなかったらしい。そうでなくても多忙なのだ。ルックのために時間を割いてくれるのはいつものことではあり、ありがたいのだが。 どうしても申し訳なく思ううえに、実をいえば嫌がらせだとも思う。 今夜のこれだって明日には神殿全体に噂が広まって、嫉妬や羨望やその他諸々に無駄にさらされることになるに違いない。 きっとそれすらも確信犯だし。 バレていると感じながら溜め息を殺して、立ち上がった神官長を送るために椅子を蹴る。 と。 部屋を出る本当についでといった感じ。 「ああ、忘れてた」 軽い調子で袖から二通の封書を出す。一枚は神殿内での通達に用いられる正式なもの。 「この時期になると士官学校から円の宮殿に何人かの見学生が押し付けられてくる。 お前につけようなどという無謀はこっちではしないが、奇蹟の子に生徒が寄ってくるのは防げないからな」 上手に立ち回れ。 素直にルックは頷いた。 子供の相手なんて面倒な。実際の年齢がたいして異ならなくても、生きてきた基盤や思考回路が相容れないのだから仕方がない。 また、自分の存在を快く思っていない連中は、権力のない子供を巻き込むことにためらいはしないだろう。うっかりすると死者が出かねない。 それも、こうやって事前に情報を得ておけば、そういう事態へ対処しやすくなる。 「で、そっちは何ですか」 「聞かなくてもわかるくせに」 「わかるから欲しくないんですが」 ヒクサクがふふんと封筒をちらつかせる。 素っ気ない真白の一通目と異なり、こちらは薄い蒼に細かな銀が散らしてあった。濃い紺のインクでくっきりとルックの名前が記されていた。 一人前の神官将にはなったものの、ルックの後見人はヒクサクであるから、先に彼が受け取ったに違いない。 「これはおまえ宛だからね。私には別に預かった」 有無を言わさぬ調子。 押し付けられる封筒をひっくり返せば、予測通りの麗しい署名。 シエラ=ミケーネ。 ルックが苦手としている月の長老。幼い頃にさんざんいじられたため、彼女に関しては良い思い出がない。というか、思い出したくないことの方が多い。 開けるのが嫌だと思うが、開けなければもっと酷いことが起こると経験上知っている。 「ヒクサク様のほうへはなんて?」 「聞いて喜べ」 声色から、全然喜べないだろうと見当がついた。 「一週間ほどで、こちらに来るからもてなせとな」 くらりと、文字通りルックは血の気が引いた。 彼女の要求する『もてなし』の一環には、彼からの献血がもれなく含まれていたので。 <2006.10.1>
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