奏幻想滸伝
          Idea Idem Ideologie1


 大陸でも北に位置するハルモニア神聖国で、花の季節は短い。
 だから、生花はかなり高価な代物になる。特に、まだ氷もゆるみきらないようなこの季節では。
 その生花……正確には花びらが惜しげもなく宙に撒かれる光景というのは贅沢の極みだった。
 人々は色とりどりの外套をまとい、通りに鈴なり。歓声をあげ、手を振っている。
「大丈夫ですか、坊ちゃん」
 あまり身を乗り出さない方が。
「大丈夫だ」
 そう告げる黒髪の少年よりも、従者のほうがこのハルモニアではよほど身分があるように見える。
「まあまあ、手すりがありますからね。テラスから落ちるなんてことはそうそうありませんよ」
 トレイに飲み物を載せた親爺がにこにこと笑う。
「それに新しい神官将様が任命されるのは、年に一度きりの、日にちも決まっていないお祭りのようなものですからね。 そのお披露目を見られるなんて、お客さんたちは良いときに来ましたよ」
「そうみたいですね。私のイメージでは神官将様の任命というともっと厳かな儀式だと思っていたんですが」
 こんな賑やかなものだとは。
 かたりとアルコールがテーブルに並ぶ。
「神官長様の前で行う儀式も別にあるんですよ。こっちはまあ、本当にお祝いです」
 新しく国と民とを護る将を国をあげて歓迎する。
「でも、今回のこれは質素な方ですよ」
 選ばれた三方の、どなたのものかは分かりませんがねえ。
 どうやらそれぞれの神官将が別々に一つの花を選んでいるらしい。
 よいしょと親爺は腰を折ると、窓から飛び込んできた薄紫の欠片を拾った。甘い香りが漂う。ラベンダー。
「去年の方など、いったいどうやって調達したのやら。惜しげもなくバラの花びらを振る舞ってくれましたからね」
 ドライフラワーでないバラなど、種類によってはこの国では目の飛び出るような値段で取引されることもある。
「質素ねえ……」
 言いながら、少年は身を乗り出した。
 パレードの途中、輿のようなものが見えたのだ。
「あれに乗ってるのかな、グレミオ」
「さあ、私もハルモニアは初めてですし……。すみません、あの輿に神官将の方が?」
 首を傾げて尋ねられ、親爺も首を伸ばした。
「いや、あれは神殿への供物を……。ああ、あの後ろの馬に」
 ちらりと見えた人影は三つ。
 指差された先、グレミオがあっと小さな悲鳴を上げ。
「ぼぼぼ坊ちゃん。あれ、あれは、ササ」
 叫びかけ、主からの圧迫感すらある視線にグレミオは押し黙る。
 何事もなかったかのように、視線の主はにこやかに続ける。
「随分、小さい……失礼、若い人も混じっているんですね」
「ん?どれどれ」
「真ん中の彼です。見たところ、俺よりも年下に見えるんだけどなあ……」
 確かにその通り。
 三人の真ん中、栗毛の馬に跨がっているのは少年にしか見えない。神官将となるには士官学校を出ているのが普通だそうだから、異様なことであった。
 しかし、少年の疑問はさらりと流される。
「金茶の髪のお方だろう。あの方は特別だ」
「特別?」
「生まれながらに真の紋章を持っているっていう奇蹟のような方で。兄君のササライ様も同じような奇蹟の御子でいらっしゃるが……。 そちらは身体が丈夫ではなくて療養中とかでしたから、弟君のルック様のほうが先の任官となったんでしょうなあ」
 しみじみと呟く親爺の声を黒髪の少年は注意深く拾う。くちびるがうっすらと笑みの形を作った。
 のろのろとしたパレードがやっと眼下を通り過ぎる。
 撒かれる花。鼻をくすぐる芳香。
 じっと凝視していても、正装に身を包んだ少年は正面ばかりに顔を固定している。他の二人がこれでもかというほど愛想笑いを四方八方に飛ばしているのとは大違いだ。
 こちらを向けば良いのに。
 思ったが、その首が動くことはない。
 残念。
 けれどももう焦らなくてもいいはず。そうだろう?
 名前を顔だけを手がかりに探しまわったこの一年に比べれば、ハルモニアの最奥、円の宮殿がなんだというのか。
 他の人間であれば一生手の出せないような場所だが、自分には違う。
 手袋に包まれた右手にちりりと熱が走る。
 親友の遺産。
 それが親友の遺言を果たす通行証となる。
 知らずに膨れ上がりそうになる負の気配をなんとか殺しつつ、少年は相手の背中を名残惜しく見送る。
 この至近距離。まだ<ソウルイーター>の手綱をうまく握れていない自分の制御。相当の紋章使いであるルックが気がつかないはずはない。
(迎えに来てくれるといいんだが)
 そうでなくても、乗り込むけどね。
 ひそりと呟く。顔を上げれば、熱心に見ていたせいだろうか。親爺がこちらに興味深げな目を注いでいた。
「そんなに物珍しかったかい、お客さん」
「ああ。随分ハルモニア国内を旅してるけど、まだまだ知らないことがあるって思い知らされるよ」
「お客さん、故郷はどこだって言ってたっけ?」
 外に流していた視線を戻し、少年はにこりと笑った。妙に引力を持つ笑顔だった。
「今は亡き、赤月帝国」


***


 神官将ともなると円の宮殿の内部にも居室を与えられる。
 当初は家に帰るヒマもないというその執務の多忙さに対応したものだったが、現在では単なるステイタスのひとつにすぎない。ほとんどの神官将は一等市民であり、寝食はもっぱら城下の屋敷になるのだ。
 が。
「……」
 もう寝ようと思って、その与えられた部屋の扉をあけた少年は無言でぱたりとそれを閉じた。
 何か、ありえないものを見た気がする。見慣れない部屋だったから、気のせいだろうか。
 円の宮殿で生まれ育っているルックにとって、城下に屋敷など下賜されているわけもない。もともと宮殿に部屋があった。 ただ、今回の任官にあたって新しく部屋が与えられ、だったらそちらに移るかと単純に考えて荷物を運ばせておいた。 ちなみに荷物を入れたあとの部屋に来るのは、これが初めてだ。
 だから見慣れなくてもあたりまえ。
(なわけがないだろうが!)
 思い切り視界に映った人物は。
 お気に入りのティーセット全部開帳してやがったのは。
「なんでこんっな場所にいるんですか、ヒクサク様!」
 叫びで勢いをつけて部屋に踏み込む。
 少年よりも二つ三つ齢を重ねた顔がさも心外だというように目を見張った。
 軽くカップを持ち上げながら、微笑む。
「息子の昇進祝いに駆けつけた私への第一声がそれかい?」
「誰が息子ですか。たしかに貴方から生まれてますけどね。それよりもどうしてここにいるんですか」
「だから、祝いにね」
 ルックの慌てた様子に取り合わず、ヒクサクは優雅に紅茶を含む。しかも、目の前にはケーキまであった。
「まだ、味覚は生きているんだろう?」
 しぶしぶながら席についた少年に、彼は確認する。 ルックの身にふりかかっている紋章の呪についてはきちんと把握しているつもりだが、一日で一気に症状が進まないとも限らない。 せっかく持参した土産が嫌がらせになるのはさすがにごめんだった。
「おかげさまで」
「それはよかった、……が」
 にこにことした創造主の悪びれない様子に頭痛を覚えつつ、ルックはフォークに手を伸ばす。眉間にはしっかりと皺が刻まれていた。
 そんな子供をヒクサクはしげしげ眺める。己と同じ素材からできている。それには違いないのだが。
 青いかちりとした形の衣装。
 それがなんというか。
 昼間、忠誠の儀の際にも思ったのである。
「違和感があるなあ……」
「はあ?」
 唐突なヒクサクの言葉にルックは首を傾げるしかない。主語もなにもないから、意味すらつかめない。
 ひたすら不思議な顔をしているルックに対し、青年はひとつ頷くと足下に置いてあった箱を差し出した。
「神官長命令。明日からそれにしろ」
 それとは何か。
 疑問符を浮かべ、促されるままに箱を開ける。
 中から出てきたのは衣装だった。つまりこれを着ろということか。
 けれども色彩を見て、ルックは眉間の皺を深くした。
 基調は、緑と白。
「ヒクサク様。これ、規定に違反しますよ?」
 神官将の装いは実のところ、対外的な仕事以外ではかなり自由がきく。しかし、その数少ない規定に思い切り抵触しているのだ。
 曰く、色彩は主に白と青を用いることとする。
 広げたそれはどう見ても青ではない。全体にひらりと軽く作られているのは、動きを制限される、重くて硬い正装よりよほど好みだが。
 ただでさえ敵が多いのに、こんなことで悪目立ちはしたくない。
 そんなルックのささやかな願いは、案の定、神官長猊下には通用しなかった。
「神官長命令」


<2006.10.1>


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