百花陵乱5 |
「バルバロッサ!」 漏れた言葉が、己の耳にはあまりにも切迫して聞こえた。 それがどうしようもなく許せなくて、あえて声を作り替える。 「なんだい、負けてしまったのかい?黄金の皇帝の名が泣くよ」 テラスの柵につま先が触れる。振動から自分が震えていたことに気づかされてウィンディはますます動揺した。 ここまできて、ここまでして。敗れるなんて予測していなかったから、そのせいだ。 息を荒げている男を見たくなくて、逃げるように正面を見据える。 いつのまに来たのか、かつての帝国五将軍たちと対峙していた。 クワンダ=ロスマン。 ミルイヒ=オッペンハイマー。 ソニア=シューレン。 ……<ブラックルーン>を用いてさえ、彼女に応えることのなかった者。他人に頼ろうとした、おろかな過去の自分の残骸。 「貴様、皇帝陛下を侮辱することは赦さんぞ!」 「おバカさんねえ」 ちからの違いも理解せずに斬り掛かろうとする男も。それを信じたことのある自分も。 右手に宿る<門>を振り下ろせば、異界から噴き出した毒をはらんだ白い光が男を直撃する。あっけない決着に、もう一度呟く。おばかさん。 もう誰も信じない。 操り人形の糸を手放す。バルバロッサの驚いたような視線を感じたが、どうでもよかった。 一気に正気に返った皇帝の瞳などみたくもなかった。さぞかし今までの自分の所行を悔いて、ウィンディを憎悪しているだろうから。 軽やかにテラスの柵を蹴ると、彼女は皇帝よりも一歩前へ出る。背中が痛かった。 痙攣を繰り返すカシム=ハジルを冷ややかに見下ろすと、蒼の瞳を柔らかく滑らせた。まさに魔女といえる、妖しさをほのめかしながら。 再び、右手の紋章がちからを放つ。大気が震えると同時、空中庭園をぐるり取り囲む上空に歪み。そこから、耳障りなきいきいという声が漏れ出している。 具現化こそしていないものの、ウィンディの召喚した魔物たちである。 世界中の野にいるモンスターたちとは、また別の異形。黄金竜相手にも怯むことのなかった反乱軍の一味が、ひとりを除いて後ずさる。得体の知れない物に対する至極当然の、生存本能だった。 ひとりの例外……リン=マクドールを見て、彼女は笑う。 足がすくんで逃げられない、というわけではないだろう。生存本能が抜け落ちてしまっているわけでもない。 その証拠に、向けられてくる視線に迷いや怯えは認められなかった。 「さあ。次はあなたの番よ、リン=マクドール。もう、この帝国はお終いよ」 自分の言葉が跳ね返った。終わる。終わってしまう。 一歩、近づく。手を伸べる。 「でもね、あなたの<ソウルイーター>、それだけは貰っていくわ!」 これだけの代償を払ったのだ。赤月帝国も、その皇帝も結局は何もかもを手放さなければいけなくなったのに、得るものが一つもないなんて冗談ではない。 「さあ!」 また一歩。 途端、彼女の腕を阻むようにリンの回りに線が走った。描かれるのは正三角形。それぞれの頂点に、人影が幻のように浮かび上がっては消えた。 焔に手を突っ込んだように、女はよろめいた。熱はなかった。かわりに悪寒が走った。 今のは、いったい。 一瞬。目に捕らえただけなのに、前の<ソウルイーター>の継承者が「してやったり」という笑みを浮かべていたのだけは、やけにはっきりと瞼に残った。 呆然と呟く。 「なぜ……なぜなの、<ソウルイーター>」 言葉は水のように流れた。 「どうして私を拒む」 この手には、結局なにも掴めないというの? 「生と死を司り、本来の力とは掛け離れて『魂を盗む』と呪われたお前。<ソウルイーター>、お前にはこの私こそ相応しいではないか」 二十七の真の紋章。力を怖れられるだけではなく、その性質さえも創造主から疎まれた紋章。 村という特殊で暖かい空間を奪われて、やはりヒトに居場所を与えられなかった自分。 生み出しておいて、望むものいっさいを与えようとしない、この冷たい。 「この呪われた世界に一緒に復讐をしよう」 故郷を滅ぼしたハルモニア神聖国。自分を裏切った義妹。自分を見つめようとしない男。人間。魔物。 「お前まで私を拒むのか、ソウルイーター!この世界で最も呪われた紋章よ!お前さえも私を受け入れようとしないのか!!」 「もういい、やめなさい。ウィンディ」 肩に手を掛けられて、かっとする。彼が自分を否定するのは聞きたくなかった。 一度は手放した支配の力を手繰る。 「何をするの。お前など、私の魔力で」 <ブラックルーン>は未だそこにある。 だが、ウィンディの行動を阻止するわけでもなく、皇帝は静かに続けた。 「無駄だよウィンディ。私の持つ竜王剣、<覇王>の紋章はいかなる魔力も受け付けない。……それが<門>の力であってもな」 真の紋章でも通じないのだから、<ブラックルーン>など言うまでもない。 衝撃が、突き抜けた。 だとすれば今までのあれは。 「じゃあ、今までの<ブラックルーン>の支配は……」 「それもまた、戯れ言に過ぎない」 再度の衝撃。 この男は。今まで自分を欺いていたというのか。紋章の力に支配されるフリをして、その実は正気だったというのか。 どうしてそんな芝居を? 彼女をあざ笑うためか。 クラウディアに似た女の暴走を止められなかっただけか。亡くした彼女の面影を重ねて、気の済むまで付き合ってやろうとでも思ったのか。 きっと違う。真に帝王であった彼が、そんなつまらないことのために国を棄てることはない。 では、どうして? 答えを考えることを放棄したかった。 だって、そんなに都合のいいことがあるわけがない。 この手に何かを掴んでいただなんて。それに気がつかなかっただけだなんて。そうしたら理由がなくなってしまう。復讐の理由をなくし、この数百年を無駄にしてしまう。 けれども。 それでもいいと思う、こころの奥底を否定しきることができなかった。 腕を掴まれたが、振り解くことはできなかった。 華奢な靴が、からりと小石を弾いた。弾かれた石は、音さえ立てずに落下していく。 そこに決定打が決まる。戦争で俗に称される「運命の一撃」にも似て。 「私はお前を愛していた」 嘘だ。嘘であって。嘘ならば、まだ立ち直れる。生きられる。 「嘘よ。お前の愛していたのは私の中に残るクラウディアの面影よ!」 これ以上、告げないで。奪わないで。この数百年の理由を虚ろにしないで。 「それは違う。私は、お前の瞳の奥沈む悲しみを消したかった。受け入れられぬ者の悲しみを」 言葉は、偽りなく重ねられた。 ――私は、お前を愛した。 反発を押しのけて。 すとんと、言葉は彼女のうちに収まった。 真実として。 世界に拒絶されたと思っていた。 世界は彼女から奪っていったから。 手を伸ばしても、掴むことができるのは空気ばかりだと思っていた。それが誤りだった。 「空気ばかり」ではなかった。 「空気」だけは掴むことを赦されていたのだ。 ヒトが生きて行くうえで、欠くことのできないもののひとつを。 それが今、彼女の隣にある。 ひとりの男の形をとって存在している。 あのとき出会ったのが『この男』でなかったならば。 今の自分はいなかっただろう。 ユーバーが言わんとしていた意味を知る。 「今のこれが『どんなことをしても』なのか?」 最後まで赤月帝国に、バルバロッサにしがみついた自分を、彼は示唆したのだ。 しかし、棄てられなかった自分を後悔はしない。 代わりに手に入れることができたから。聡明な皇帝を?違う、そんなものではなく、自分の腕を捉える存在を。 彼がこれからしようとしていること。 すぐに予想はできた。 逆らおうとは微塵も思わなかった。 後ろへと世界が大きく傾ぐ。 耳に届く悲鳴は、彼女にとっては祝福へ。 視界に蒼い空。 まるで初めて見るようだと思った。 一度、二度と地面に叩き付けられた彼らを風が包み込む。次の瞬間には、何も残らない。 そこを突き抜けて瓦礫が降り注ぐ。 帝国の終焉。 そして二人が次に現れたのは。 彼らにとっての始まりの地。 すでに日は落ち、細い月が傾いていた。 出現場所を制御する力もなく、かなりの高さから落下する。弾みに、白い花弁が辺りへ散った。 動かない四肢。 それでも必死に首だけを動かして、相手の顔を見ようとする。 「もう、死んでいるよ。ウィンディ」 ざわりと。風に花を遊ばせながら、声が響いた。気配が近づいてくる。知っている気配だった。しばらく前に彼女の側から消えた人物の纏う空気。 それでいて、違う。 彼女に宿ったままの<門>が熱を持っている。声の主が同類――真の紋章の主であるということだ。……今まではそんな反応はなかったというのに。 「……ルック?」 「そう」 確認ゆえの疑問符は、あっさりと肯定された。 この局面に及んでも、相手の気配を探ってしまうのは既に性となっていた。そして知る。この少年が真の<風>の持ち主だということを。 その紋章はハルモニアのものだ。 そういうことか。 己を笑おうとしてできなかった。ひゅうと喉が鳴る。鉄の味がくちに広がるばかり。内蔵をやられているのだろう。 静かに時が流れる。 少年は行動を起こそうとはしなかった。目の前に格好の獲物がいるというのに。 ハルモニアが村を蹂躙してまで奪おうとしていた<門>が抵抗の術無く、転がっているというのに、だ。 「どうしたんだい?紋章を奪うのがお前の仕事なんだろう?」 精一杯、からかった声音。 「でも残念だったわね。ひとりの人間が宿せる真の紋章はひとつだけ。もう<風>を持っているお前には宿せないんじゃないかしら?」 「確かに、ひとつの肉体に複数の真の紋章を宿すことはできない。……でも」 あいにくと、僕はこの『からだ』にはひとつも紋章を宿していないんだよ。 言葉と同時、ウィンディに宿っていた<門>の紋章が光を放つ。 そういうことか。すとんと納得する。 ハルモニアの生み出した最高にして最悪の封印球。真の紋章を肉ではない「何か」に宿し、しかも外すことができない。 レックナートがさらってきたササライと比べるならば、明らかな失敗作がハルモニアには存在すると耳に挟んだことがあった。その姿もヒクサクを写しているとも。 あれだけの憎悪を燃やしていながら、仇の姿すらもしかとは見定められなくなっていたなんて。 けれども、もうどうでもいい。そんなことは。 彼女はやっと望んだ世界を手に入れたのだ。 今はただ、その世界を抱いたまま、抱かれたまま終わりたい。 そのためには<門>の紋章が邪魔だった。一番のよりどころであった真の紋章は、もはや必要のないものになっていた。 墜落の衝撃で皇帝とともに逝けなかったのは、同じ真の紋章の主でありながらも、ウィンディは身体に紋章を宿し、バルバロッサは剣という道具に宿していたからだろう。 紋章は今も必死になって宿主を生かそうとしている。 真の紋章はいらない。 そして、ここには紋章が好む器がある。しかも、それは彼女が少なからず気に入った性格の持ち主でもあって。 継承の条件は整っている。 「あげるわ。もう、私には必要ないもの」 「いいの?僕は……」 ハルモニアの意志の下に。 真の紋章を狩りにきていたというのに。 「勘違いしないで。ハルモニアに渡すのではないのよ。ルック、あなたに」 言葉が終わると同時、青い閃光が夜の花畑を照らす。 光は徐々に収束し、ぼんやりと少年の額で最後の燐光を放った。正確には、サークレットに嵌め込まれていた宝玉が。澄んだ緑柱石の彩が変化する。蒼。ウィンディの瞳の彩。 「……確かに受け取ったよ、魔女ウィンディ」 いや。 「皇帝の寵妃、ウィンディ」 答えはない。 眠るようなふたりを見下ろして、彼はゆっくりと術を結んだ。 愛する女のためにすべてを放棄したバルバロッサ。 復讐のためにすべてをかけたウィンディ。 彼らが何をしたのか、忘れるつもりはない。この国に、民に、それから最初の友人に。 でも、終わったのだ。終わったのに引きずっていては、それこそハルモニアの影を憎み続けたウィンディと同じになってしまうから。 この花畑にすべてを埋めよう。花の美しさに、散り行く哀しさに、咲き誇る喜びに併せて、こころが浄められますように。 優しくあれますように。 冷たく崩れ去った城ではなく。 花咲き乱れる地こそが、彼らの陵。 後、解放軍によってグレッグミンスター城の探索が行われた。 その中でどうしても発見できなかったものがいくつか。 崩れ落ちる城の中で殿を務めたふたりの男の姿。 これは解放軍の魔法兵団長によって「<星辰剣>の仕業でしょう」で結論がついた。真の紋章が、その能力を発揮して主を守ったのだろうと。 そして、最も重要なもの。 最後の皇帝と、その妃の遺体、それから彼らが所持していた竜王剣。 赤月帝国の滅亡を宣言するには欠かせないそれらを、解放軍はどうしても見つけられず、しまいには諦めた。 トラン共和国初代大統領になるレパントは、皇帝たちの生死とこの地の支配者の証ともいえる竜王剣の行方を気にしていたようであるが、トランの英雄は気に留めた様子はなかったという。 どのようなことがあろうとも、彼らは戻ってこない。 かの英雄はそう呟いたと伝えられている。 太陽暦458年。 解放戦争、あるいは門の紋章戦争と呼ばれるトランの動乱は、ここで終結する。 帝国歴にして228年。 <覇王>が支配した国は、歴史から消えた。 <2006.05.27>
|