奏幻想滸伝
          百花陵乱4


 屋上の花園に落日。
 純白のバラが血の色に染まるのを皇帝はじっと眺めていた。
 まるで今の自分のようだ。
 もっとも、それは今に始まったことではない。継承戦争より、この手は拭うことも不可能なほどに血に染まっている。 だからせめて自分の愛するひとだけは白いままで居てほしいと願っていたのに。
 最初に愛した妻は、たしかに汚れはしなかった。だが、生涯そのままでいることはできないとばかりにあっけなく逝ってしまった。
 本当に突然の別れだった。
 紋章の呪いについて知ったのは、それからすぐだった。
 赤月帝国の皇帝が代々受け継ぐ<覇王>の紋章。幼い頃は、真の紋章に認められるような素晴らしい皇帝になりたいと願っていた。 継承した際には、誇らしくもあったというのに。
 その全てを覆すほどの衝撃。
 主が愛するモノを守る力を与えるのと引き換えに、最も愛する者を得られない。
 クラウディア。
 初めて愛した皇妃。
 彼女が亡くなったのは、どうしてだ?己のせいではないのか。
 そう結論に至って、彼はそれまで以上に政務に明け暮れた。彼女を「殺した」という現実から逃げるために。逃避行動に過ぎないそれが、名君としての彼の名声を高めた。 そのうち政情が安定してくると、国の将来を憂えて再婚を勧める臣下も現れた。このままではルーグナー家の血が途絶えてしまう。 もっともな事実であり言い分であったが、彼は首を縦にすることはできなかった。
 完全な政略結婚であっても、長きを共に過ごせば情も湧く。その末に、また失ってしまったら……?
 想像したくもなかった。
 だったら、いつまでもクラウディアを愛し続けよう。いくら真の紋章でも死した人間を殺すことはできない。

 なのに。

「いつまでそうしているつもり?」
 風にまぎれて声が届く。
 聞き覚えのある、硬質な少年の音。
「そなたこそ、どうしてここにいる?去ったはずではなかったか?」
 ここ数ヶ月、グレッグミンスターから消えていた気配だった。
「去る?まさか」
 心外だとでも言いたげな口調だった。
「まだ貰うモノも貰っていないのに?」
 振り返ってみたわけではないが、その緑の視線はおそらくバルバロッサの腰にある竜王剣に注がれているのだろう。
「そうであったな」
 生真面目な返答だが、事実。
「だが、まだこれには用がある。そなたに与えるわけにはいかない」
「わかってる」
 今、受け取ったところで。主と無理矢理に引きはがされる形となる真の紋章は黙ってはいないだろう。バルバロッサの元に何が何でも戻ろうとする可能性もあった。
「クワバの城塞が堕ちたよ」
 文字通りの最後の砦が。途中にいくつかの街や村があるものの、反乱軍を妨げるものではない。ここまで来てしまえば、一直線だ。
「もうすぐウィンディが報告に来るだろうけれどね」
 どうする?バルバロッサ。
 このまま滅びを受入れるのか。あるいは最後まで抵抗するのか。
 選択肢はあるように見えて、その実まったくない。
 彼が今の「ウィンディの操り人形」を演じているままであれば、なおさら。
 皇帝らしく自害するのか。皇帝らしく、最後まで誇りをもって戦うのか。
 その程度だろう。どこまでも「覇王」らしい最期を。どうせ死は免れないのだ。
「そなたならばどうする?」
 どちらを選択する?
 気まぐれな問いにしばしの沈黙。
「そうだね……」



「陛下」
 若い女の声が禁園に響いた。口調は敬意よりも苦々しさが勝っていた。
「お探しいたしました」
 嘘ばかり。この右手に宿る紋章のおかげで、ウィンディは誰よりも正確に皇帝の居場所を掴むことができる。 おそらく、彼女の言いつけを破って空中庭園にいることが機嫌が降下している原因だろう。
 まったく、可愛らしいことだ。
 思って、しかし感情が表情に出ないように苦心する。
「それはすまない」
 一息ついて、彼は振り返った。
 そして、息を呑む。
 ウィンディは、いつものウィンディではなかった。どこがどう、とはいえない。強いていえば瞳。 普段はたたえられている強さ……強がりという完璧な仮面に亀裂が垣間見える。
 何があったのだろうか。
 先ほどまで背後に居た少年は「クワバの城塞が堕ちた」と言い残していたが、その衝撃でというわけではないだろう。 ウィンディの望みを知ればこそ、城塞がいくつ失われようが彼女は歯牙にもかけないはずであるのを分かっている。
「どうした、ウィンディ」
 思わず自分の役も忘れて尋ねた。はっとしたが彼女はその不自然さに気がついた様子もなかった。それだけ動揺している。
 幽霊のように滑るように皇帝の前に進み出ると、すいと右手を持ち上げた。手の甲に刻まれた支配の紋章を確かめる。
「どうした、ウィンディ」
「……きちんと、ある」
 独り言は震えていた。愛しそうに支配の紋章をなぞり、くちびるを寄せる。
 途方に暮れたようなその様子に、バルバロッサは反対側の手を伸ばした。ゆるりと金の長い髪を梳く。あやすように。
「そう、あるから。心配せずともよい」
 置いていったりはしない。
 いなくなったりはしない。
 声に出すことはない。ただ強く思った。そうすれば、<ブラックルーン>を通じて意図だけは伝わるものだと気づいていたから。
 どれほどの静寂の後にか、ウィンディが顔を上げた。すでに普段の彼女が組み立てられていた。強さと、その奥にある強がり。
「玉座の間へ」
 紅のくちびるから零れたのは、れっきとした命令だった。
「これからのことを命じていただかなくてはならないんだから」
「これからのこと?」
 人形であれば抱くであろう疑問をおうむ返ししてやる。それだけで彼女は酷く安心する。
「そう。クワバの城塞は陥落。ほどなくしてグレッグミンスターは戦場に。だから、皇帝自らが戦うことの決意を示してもらわないと」
 ここまで事態が収束した以上は、それは明白に避けられないことであった。
 扉をくぐり、階段を下りる。
 玉座の間に続く最後のアーチを前にして、彼女はぴたりと足を止めた。背後に寄り添っていたバルバロッサを振り返り、その右手をそっと握りしめる。
「私のために戦いなさい。裏切ったりしたら、赦さない」
 彼女を取り巻く魔力の揺らぎが大きくなる。<ブラックルーン>に注がれる力がいっそう強まった。 <覇王>の主であるために支配されることのないバルバロッサだが、冷静にそれを感じ、いっそうそれらしく振る舞うことを意識した。
 皇帝の様子をどうとったのか。ウィンディは満足げに微笑むと一歩を踏み出す。
 彼女から表情が隠れたのを幸い、バルバロッサは密やかに表情を歪ませた。
 そんなことをしなくとも。
 もう、己の戦う理由など彼女にしかないというのに。
 ウィンディが何故にそれほど焦っているのかはほどなく知れた。
 彼女と盟友関係にあった得体の知れない男が彼女を裏切ったらしい。
 そのような事態を想定していなかったため、取り乱したということか。
 まったく可愛らしいことだ。
 数百年を生きている魔女だというのに、そんな些細な事件で容易く揺れてしまうとは。 人間は簡単に嘘をつき、変化し、去っていってしまうものだと、まだ二桁の年月しか生きていないバルバロッサにも理解できているのに。
「陛下、陛下だけでも脱出を」
 アイン=ジードが面を伏せたまま訴えた。
「バルバロッサ様さえ生き延びることができれば、帝国の復興もかないましょう」
「ならぬ」
 必死の訴えを彼は退けた。ウィンディの意志を理由とするだけではなかった。
 もう、この国は滅びる。
 否。もはや滅びている。
 民が皇帝を皇帝として崇めるからこその帝国。だが、ここに民はいない。 僅かに忠誠に縛られた臣下、それから赤月帝国建国の時代から連綿と形作られた意識がバルバロッサを皇帝たらしめているのみ。
 一度瓦解してしまえば、元に戻ることはないであろう。
 ……元に、戻すつもりもない。
 この国は、既に皇帝を必要としてはいないのだ。
 ならばいっそこの身で終わらせるべきだ。好都合なことに後継者を指名してはいない。 クラナッハ=ルーグナーより受け継がれてきた血の器もない。自分さえ消えれば、さしたる混乱も火種もなく国は……トランの地は継承されていくだろう。
 淡い笑みを浮かべた皇帝に何を訴えても無駄だと思ったのか。アイン=ジードは深い溜め息と苦笑を吐き出した。
「そういうことでしたら、仕方あるまい」
「そういうことだ」
「でしたら、最後の奉公でもいたしますかな」
 アイン=ジードはすっくと立ち上がった。
 腰の剣の感触を確かめ歩き出す老いた武人に向かって何か餞をと思った。しかし、あいにくと気の利いた何もバルバロッサからは出てこなかった。
「すまないな」
「仕方ありますまい。この国の行く末をこの目で見届けられない幸運をいただいたと思えば」
 バルバロッサ=ルーグナーの死。
 逃れられない帝国の断末魔を聞かなくて済むことが。
 帝国に生きる者の何よりの冥土の土産だ。



 人が去り、がらんとした玉座の間の中心に座り、バルバロッサは瞼を閉じた。
 遠く、怒号のようなものも聞こえる。
 心に焦りはなかった。怯えも、なにも。
 どこまでも凪。
 するりと手を滑らせて腰に佩いた剣を確かめる。竜王剣。武器はこれしか身につけていない。それ以外は必要ないと知っていた。
 ウィンディの姿はいつの間にかなかった。
 それもいい。
 これからの最後の戦いで彼女が傷つくことはなかろう。彼女は<門>の魔女。真の紋章の力に守られているのだ。 戦力としては側に居て欲しいと願うところなのだろうが、最初から「生存」という選択肢を諦めてしまっている彼にとってはありがたい限りだった。
<覇王>の紋章の力を使う。それは決めてしまっていたことだった。
 歴代の皇帝のなかで、その強大な力を振るった者の記録はほとんどない。ただ、幾つか残るそれを総合して想像するならば、愛するひとに見られたくない姿になる。
 天井を眺める。
 どのくらい変化してしまうかはわからないが、この場で大丈夫だろうか。
 この地の覇者の最後を飾る場所として玉座の間は相応しいかと思ったのだが。
 だが、ここではない。
 何者かに囁かれたような気がした。
 操られるように。ふらりとバルバロッサは立ち上がった。
 もっと相応しい場所がある。
 彼と愛する女性以外、何人たりとも踏み入れることができない場所。広大な帝国領と比べるまでもなく、ちっぽけな。どこよりも深い。彼に残された最後の聖域。
 あそここそが。



 出て行くべきだ、と心が囁いた。
<ソウルイーター>は強い。だから……。
 胸元をぎゅっと握りしめる。
 喪失に怯える心を潰すように。
(……怯える?)
 何を、馬鹿な。
 今更だ。
 そもそも何を失うというのだろう。この手の中に握りしめているものは、空気ばかりだというのに。



 夕日を背に立っていたせいで、相手の表情は細部まで読み取れた。
 かつてテオ=マクドールの背に従うようにして拝謁を許された少年は、もはやひとりの男として皇帝と相対している。
 向かい合う自分は一体どのような顔をしているのだろうか。……きっと敗者の表情をしているに違いない。
 物言いたげにしていたくちびるがその意図を持って動くのをバルバロッサは妨げた。 口では何を言おうと、周囲を納得させるには命のやりとりをする他ない状況に彼らは置かれているのだから。
「反乱軍のリーダー、リン=マクドール。否」
 滑り出た声は、自分でも驚くほどに澄んでいた。
「解放軍のリーダー、リンよ。よくここまで来てくれた」
 言葉は自然と意味を生み出した。
 思ってもいなかった台詞であったが、紛れもない本音。
 この地に帝国が打ち立てられてから、およそ230年。皇帝の首をとるために帝国の最奥まで踏み込んだのは彼らが初めてだ。
 本当によく来た。
 真に民を憂える者たちよ。
 バルバロッサとて理解している。ここで帝位を棄ててしまえば、すぐさまに戦闘は終結する。多くのものはそれを望んでいよう。
 同時に他の理解もあった。「最後の皇帝」として、それらしい振る舞いをせねばならないということを。
 己がどちらを選ぶかということも。
「見るがいい、この庭を・・・。花咲き乱れる美しい場所だ」
 彼と彼が愛した者しか立ち入ることができなかった場所。バルバロッサにとってはどこよりも神聖な場所。玉座に何の意味がある。
「私に残された最後の帝国領だ」
 ここが、こここそが。この場所に残る思い出が。彼女たちと過ごした時間が。
 本当に守りたかった、自分の帝国。
 右手が剣に触れる。ぐうと握りしめる。
<覇王>よ。
 主が愛するモノを守る力を与えるのと引き換えに、最も愛する者を得られない。
 ならば。
 せめて。
「リン、私はこの帝国を守る。この手で、この最後の帝国領を守ってみせるぞ!!」
 愛する者とのかけがえのない場所程度は守ってみせる。
 気迫とともに振り上げた剣は、主の声に応えて黄金の光に包まれる。
 同時に。
 それまで冴えていた思考が霞に沈む。
 正しくは塗りつぶされる。
 解放した力は人間の手に負えるものではない。圧倒的な世界の理。金の奔流に意識がさらわれる。
 力がみなぎるが、反対に意識は薄皮を隔てて現実味を失う。
 戦っているのは、自分か紋章か。
 加えられる攻撃もどこか遠い。
 それでも。
 守るという一念が、ともすれば消え去りそうな個を保つ。
『外側』の『彼』とはまったく異なる意志。
 偶然にも同じ眩しい金の光。陽光を紡いだような、長い髪。蒼天を映した瞳。花畑に埋もれた。
 笑顔が見たいと思った。
 一点の翳りもない笑顔。
 たった一人の彼女。
 すべての感情を憎しみにすり替えてしか生きてこれなかった彼女。
 愛さないように努力すれば、与えられたのだろうか。
 意識の中で手を伸ばした。
 ひたすらな意識に圧されたのか、あるいは外側に加えられた攻撃に屈したのか。
 紋章の檻が瓦解する。


<2006.05.27>


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