奏幻想滸伝
          我行我素


「ただいま戻りました」
 白亜の宮殿、玉座に跪いた少年は言葉とともに顔を上げる。
 額の蒼い宝玉が、灯りを反射して煌めいた。
「命じた物は」
 玉座に辿り着くまでの距離の両脇に並んだ数人の神官将のうち、ひとりが尋ねる。
「ここに」
 言葉とともに手を上げて、頭に添える。サークレットを外そうとした少年を玉座の主が制した。
「それはよい。あの女は『おまえに』と言ったのであろう」
 くつくつと苦笑いを含ませて、青年は言う。
 ですが、と言いかけて神官将はくちを噤んだ。現人神の意見は絶対だ。いくらそれが気まぐれに満ちていたとしても。
 目の前の少年が神官将として適格かどうかの審査の課題だったのだ。真の紋章の回収は。「これはできまい」という悪意に満ちたそれを押し付けたのは彼の存在をよく思っていない一派であったが、課題は課題。ヒクサクもそれは認めていた。
 その成果を、ハルモニアの至上命題のひとつを簡単に与えていいものか。しかも、すでにひとつの真の紋章を持っているくせに。
 非難に満ちた空気を読み取ったのか、絶妙な間で神官長は少年の傍らに置かれた細長い包みを示した。
「代わりに、それを納めるが良い」
 長い指が示した先に、初めて注目が集まった。
 少年は長く溜め息をつくと、ゆっくりと包みをほどく。
 現れたのは一振りの剣。
 じっとそれを凝視していた初老の神官から、驚愕が零れた。
「それは竜王剣……!」
 ざわりと場が波立った。竜王剣と言えば、クラナッハ=ルーグナーが二百年以上前にハルモニアから持ち去った<覇王>の紋章が刻まれている。
「赤月帝国皇帝バルバロッサから受け取ってきました。いちおう、いただいてもいいという言質はいただいてありますので、問題はないかと」
 真の紋章の継承者の了解があるため、突然に<覇王>が消え去ってしまうことはあるまい。
 神官長はひとつ頷いて、周りを見渡す。
「皆の者、異議はないな」
 質問というよりも確認。
 試験の課題というある意味、任務とさえいえない代物でふたつの真の紋章を持ち帰ってきたのは大変な偉業だ。
 反論など、あろうはずもない。
「真の<風>の紋章の継承者ルックを正式に神官将として認定する。任官の儀などについては追って連絡する」
「ありがたき幸せにございます、我が父よ」
 時が異なるふたつの同じ顔が、まっすぐと互いを確認した。



 今宵の月は満月に近い。
 だから行動を起こすには細心の注意を。そう覚悟していたのだけれど、好都合なことに空は灰色の雲で覆われていた。
 待ち合わせの時間には、まだ早い。約束の相手は石板守。愛想がよくて付き合いのいい彼のことだ。 グレッグミンスター陥落からおよそ半月、初めて盛大に開かれている宴会から抜け出すのは難しいだろう。
 もっとも、その主役であるはずの『トランの英雄』はとっくに会場から姿を消しているわけだが。
 あの心配性の守り役も置いてきた。
 これから自分がしようとしていることはある意味、無謀だ。この解放戦争を目鼻を付けて終わらせることができたのも奇蹟に近いが、それはマッシュの天賦の才があったからだ。 人は自分をその中心に据えるかもしれないが、勘違いだと笑いたい。
 城が瓦礫と化した後、マッシュは静かに息を引き取った。名医リュウカン曰く、眠るように。自分は臨終には間に合わなかったが、それを残念に思うでもなくこころの底から喜んだ。
 無意識にリンは右手を握りしめる。
 今、そこに宿る魂は三つ。オデッサとテオとテッド。
 何度か試してみたが、グレミオが復活するまでは使うことのできた<ソウルイーター>の最上級魔法・裁きが使えなくなっていたから、確実だろう。
 その事実は、何よりもリンを安らかな気分にさせた。
 マッシュの魂を喰らわずに済んだこと。
 だが、同時に恐れを抱かせた。
 この紋章は確実に。自分の大切な「誰か」を喰らうだろう。
 それがこの旅立ちを後押ししたのは確かだ。しかし、それだけではない。戦争が終わったら故郷を出よう。決心は、シャサラザードでは固めていた。
 国が腐ったからと、内側から壊すだけ壊して。どうして組み立てようとしないのか。非難されることは承知の上。だからこその秘密の出立だった。
「坊ちゃーん!」
 遠い声を聞く。
 振り返ると、これまた旅装を整えたグレミオが大きく手を振っていた。
「グレミオ」
 反射で名を呼び、どうしてと呟く。ぐんぐんと近づいてくる姿に呆然とする。彼には何も告げていない。ここに現れるわけがない。
「酷いですよ、坊ちゃん。置いていくつもりだなんて。ササライくんが教えてくれなかったら、私はどうしたらよかったか」
「ほほう」
 ササライめ。誰にも絶対に言わないと口止めしておいたというのに、それを破るとはけしからん。
 不穏な主の気配を感じとって、グレミオがやんわりと釘をさした。
「彼のせいじゃありませんよ。ちょーっと彼の行動が不審だったので、問いつめてみただけです」
 にっこりと笑顔。普段の穏やかさはどこへやら、主の動静となるとグレミオは驚くほどの行動力と粘着性を感じさせた。
「それにテッドくんとの約束です」
 まさか破れるわけがないじゃないですか。
 そう言われてしまっては、リンとしても認めないわけにはいかなかった。特大の溜め息と共に、覚悟を吐き出す。
 次の<ソウルイーター>の犠牲者の候補を挙げるとしたら、それは一度喰われた実績を持つグレミオは筆頭である。 だが、これで逆に逃げ道はなくなった。これからは心してこの厄介な紋章の制御に取り組まねばならない。
「話はつきましたか?」
 唐突に少年の声が割りこんだ。
 ふたりからちょうど二、三歩歩いた辺り。いつのまにかササライが金茶の髪を風に揺らしていた。
「ササライ……」
 リンの怒りがほどけるのを見計らったタイミングに、どこまで計算だろうかといらぬ疑念を巡らせた。もっとも、彼のことだ。 計算しているにしろ、それは無意識である。共に過ごした年月の長さで、それくらいはリンも熟知していた。
「で、どこにお送りしましょう?」
 教えていない呼びつけた理由を的確に尋ねられる。
「いいのか?」
「別に、構いませんよ?」
「俺はこの国から出ようとしてるんだが」
「前に言ったかもしれませんが、僕にとっては関係ありません。僕は確かに解放軍の一員でした。 でも、僕がさらに重きを置かなければならないのは宿星です。そして、この地に集まった宿星はすべて天に還りました」
 天魁星であるリン=マクドールが出奔しようとしていれば、当然止めた。けれども、元・天魁星であるリン=マクドールを止めようとはまったく思わなかった。
「グレミオの件は諦めてくださいね」
 彼、僕が教えなかったら「坊ちゃんがどこにもいらっしゃらないんです〜」とレパントや将軍たちに泣きつきそうだったんですから。
 その様子がまざまざと思い浮かんで、仕方ないなとリンは微笑んだ。
 場の雰囲気がまとまったのを見て、ササライは手にしていたロッドで地面をとんと叩いた。
 瞬間、青い光が地面を走る。複雑な文様が夜の闇に浮かび上がった。
「どこをお望みですか?トランの英雄」
「……おまえの術では、この世界のどこへでも行けるのか?」
「どこでも、という万能ではないけれど。とりあえず、地名を言ってくれれば、できるかどうか教えます」
「ハルモニアは?」
 考える素振りもなく、リンはひとつの国名をあげた。
 少年の面に驚きの感情が浮かんだ。ひとつ溜め息をついて、くちを開く。
「念のために聞くけれど、わかってますよね?」
 ハルモニア神聖国は真の紋章を狩っている。ようやく終結した解放戦争も、根はそこにあった。 そんな危ない国に、いわば「真の紋章初心者」が乗り込もうというのだ。気になるのもわかるが。
「俺はテッドとの遺言を果たしたい」


「……なら、あいつに伝えてほしい」
「『それでも星はお前に降りたんだ』……てな。……最後の、お願いだ」


 あいつ、とはきっとルックのこと。ルックがどこの誰だかなんてわからないが、手がかりはある。
 目の前のササライの顔。
 ここまでそっくりな赤の他人が存在するとは考えがたい。そしてササライはハルモニアの出身だと聞いた。ならば、自分は行くだけだ。
「ハルモニアと言っても広いですよ。具体的にはどこに」
 ササライは「できない」と否定しなかった。確認を続けてくる。
「ちなみにササライはどこの生まれ?」
「……ハルモニアのクリスタルバレーです」
 首都。
「じゃあ、そこで」
「わかりました。街の外れに跳ばします」
 事情がわからずに疑問符を浮かべて、けれども頷いて、陣のなかに入るようにふたりを促す。
 ぼんやりとしていた光が強くなる。
 少年から流れる言葉。呪文はまるで歌のよう。強い魔力が身を取り囲む。
 リンは天を仰ぐ。
 雲の向こうの星よ。星見の魔女よ。
 おまえたちの、おまえの望みは動いたかもしれない。
 だが、自分の望みは未だだ。
 必ずこの手で捕まえてみせる。



 彼の針路を見守るのは曇天。
 門出には相応しくないと人は言うだろう。
 けれども、構わない。
 星の祝福も何もいらない。
 自分の足で、親友の遺した標を得よう。
 手がかりは少なくて、いっそ笑えるほどだけれど。
 それができたら、せいぜい自分で自分を祝福しようか。


<2006.05.28>


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