奏幻想滸伝
          百花陵乱3


 こんなことがあっていいのか。
 真っ先に浮かんできた感情は、喜びや感謝ではなく怒りだった。
 もっとも、この場面でそれを言わないだけの分別は存在していた。
 腕のなかにある従者。最初に失った親しき人間。
 彼を失ったことは真実辛いことではあった。だが、これは戦争だ。死は日常に溢れている。戦の中にあって、敵味方関係なく。 伴侶を、家族を、友人を失わなかった人間は、哀しいことに当たり前なのだ。
 それなのに、どうして戻ってくる?喪われた命が!
 自分が天魁星とやらだからか?宿星とやらをすべて集めたからか?
 ふざけるな!
 腹の底で叫ぶ。
 そんな馬鹿なことがあってたまるか。そうだというのならば、彼一人ではなくトラン中で自分と同じ思いをした民全員に恩恵を施してやるべきだ。
 魔女は言う。
 これが最後。次はない。
 ……次などいらない。
 星見の弟子は、何が嬉しいのかにこりと笑いかけてきた。良かったですね、自分も嬉しいとばかりに。
 ……勝手にそう思われても迷惑だ。
「あの……坊ちゃん?」
「あ、ああ」
 沈んだ思考を引きずり上げる。不安げにこちらに視線を注ぐグレミオと目が合った。青い瞳には、確かに怯えが見えた。
 グレミオは、明らかにリンのこころを察している。家族以上に共にいたのだ。
 リンは深呼吸した。
 生き返ってしまったのはグレミオの責任ではない。また、彼の複雑な心境は「グレミオが復活したこと」に対してでなく、こんな風に「人間が生き返る」という現実に対してだ。個人的な感情を優先して考えれば、……嬉しいのだろう、やはりどうしても。
 素直に感じよう。偽ったりせずに。
 別次元で思考を切り替えて、リンは一歩を踏み出した。
「お帰り、グレミオ」
 続けてありがとうと言いかけたが、それは呑み込んだ。何に対してのありがとうだかわからなかったためだった。自分のためにグレミオは死んだわけじゃない。 彼の信念に基づいて人生を選んだのだ。
主従のあいだにあった見えない壁が砕けたのを見計らったように、軍師が声を張り上げた。
「帝国との戦いにも終わりが近い。我々、解放軍にも犠牲が出た。死んで行った友の為にも、そして、なにより未来の為に、我らは進まねばならない。 この戦いを終わらせなければならない」
 不自然でない場所でマッシュは言葉を切ったが、リンにはわかってしまった。 彼は今、激痛との戦いを繰り広げている。並の軍人でも痛みで動けないところを驚くべき精神力だ。
 ちくりと右手が痛んだ。
 ああ、また死に反応している。
 四人の命を喰らって安定していた<ソウルイーター>は、要のひとつを失ったことで、貪欲に次の獲物を探している。
 注意しなければいけない。テッドが最後に忠告してくれた。この紋章は親しい人間の魂を喰らって、成長する。
「我ら、解放軍の旗の下、レン殿の下……」
 ちらりとマッシュがこちらに顔を向けた。
 言われなくともわかっている。軍主としてどうしなければならないのか。
 何度か見た、父の出陣の光景。兵を鼓舞する父の姿。
 率いる者とはこうであれと空気で教えられた。
 ゆったりとした動作で広間を見渡す。
 クレオ、パーン、ビクトール、フリック、レパント。
 自らの生活を守るために立ち上がった者。
 帝国を思うが故に、あえて帝国に刃を向けた者。
 様々な思惑。
 それらを超えて、今、彼らはここに集う。
 正面を見据えて、リンは右手をゆっくりと上げた。視線を惹き付けて、通る声が響く。
「我らに勝利を!」
 合図するでもなく、ひとつひとつ声が連なる。
「我らに勝利を!」
「我らに勝利を!」
「我らに勝利を!」
「我らに勝利を!」
 最後に声のうねりはひとつとなった。
「我らに勝利を!」



「グレミオ、明日の戦はおまえは留守番だ」
「え、えええええっ?!」
 当然の権利とばかりに武器の手入れをしていた生き返ったばかりの従者の反応に、リンは釘を差しておいて良かったと心底思った。
 死んでいたから仕方がないが、グレミオの今の戦闘能力では前線を常に突っ走っている自分の側に置いておくことはできない。
 そのまま<ソウルイーター>のなかに逆戻りするのがオチだろう。
 どう言葉を選べば、彼が落ち込むことなく戦場から離しておくことができるだろうか。
 過去が過去であるせいで始まった主人の葛藤をよそに、グレミオはあっさりと折れた。
「まあ、そうおっしゃるんだったら仕方がありませんね」
「おい?」
「私がいない間はどなたがお世話をしてくださっていたのかはわからないのですが、すこしお部屋が散らかっているみたいですから片付けでもしておきますよ」
「……ああ、うん。じゃあ、頼む」
 わずか淀んだ答えに、グレミオはにこり微笑んだ。
 考えなくても、主の態度はわかる。
「私も行くと言い張ると考えていらっしゃいましたか?」
 リンの顔には大きく図星と書かれている。
「いろいろと考えてわかったんですよ。私が本当にしたいのは、坊ちゃんの隣を守ることだけではなく、坊ちゃんが気持ちよくいられる場所を作ることもだと」
 だいたい坊ちゃんは私がいない間に随分強くなってしまったみたいですからねえ。
 強くなったというのは、父親を殺せるまでになっていたということだろうか。グレミオはおそらく誰かから聞いて、知っているだろうにも関わらず。 リンに何も言ってはこない。
 ありがとうと密やかに呟き、それでは明日に備えて寝るように促そうかと思った時だった。
 グレミオがリンの沈黙をさらりと流した。
「あちらから戻ってくるときにテッドくんに怒鳴られてようやく気づけました」
 静かな爆弾に、リンは発そうとしていた言葉を取り落とした。
 何を言った。
 今、グレミオは。
「テッド……が?」
「ええ、生き返ってくる時……というのもおかしいのでしょうが、テッドくんが助けてくれたんです。 私は紋章術にはてんで疎いですから、状況がまったくわからなくて。戸惑うばかりの私に発破をかけてくれましてねえ」
 いささか乱暴すぎた少年の姿を思い出す。
 投げられた言葉も。
 隣で共に成長できなくてもいい。進めなくていい。
 ただ、自分にしかできないことがあると気づかせてくれた。主がいつでも帰れる空間を与えることができるのは自分だと。
「……なあ、グレミオ」
 ことりとリンは首を傾げた。幼い仕草は、軍主の見かけを完全に裏切っていたが、グレミオは何も指摘しなかった。
「テッド……どうだった?」
「相変わらずでしたよ」
 濁した質問。落ち着いているというよりもむしろ沈んだ音。
「テッドくんは、どこにいてもテッドくんに変わりはありませんでしたよ」
 答えにリンは無意識のうちに右手の甲を強く抑えた。わかっている。彼は強かった。 自分の選択を悔やみ、それに負けるような人間ではない。たとえそれば死の暗闇の中であっても。
「……坊ちゃん」
「わかってるんだ、グレミオ」
 わかっている。親友だったから。
 どうして彼がこの紋章を自分に託さざるを得なかったのか。託したのか。どうして彼があの選択をしたのか。 どうしてと湧きあがる疑問に対してテッド自身に関する言葉であれば、読み解ける。
 わからないのは最後の言葉の真意のみ。
 ただ、それに対して自分がどうしたいのかは知っている。
 とことんわがままだ。
 皆、大切な誰かを失っているのに、それを僅かでも取り戻すことができて。
 そのくせ、課せられた責任をすべて振り切ろうとしている。
 でも、それが自分だ。紛れもなく、リン=マクドールという人間の核心だ。望まないことなどできない。望んだことしかできない。
 それでもいいと直接も間接も教えられた。
 だから。
 そうするための最後の踏切を。
 薄く微笑む。
「おまえは、この国を俺が治めることを望むか?」
 従者もにこりと微笑んだ。
「さあ」
 そして最大の一撃を。
「私は坊ちゃんさえ幸せであれば、他はどうでもいいですよ」
 瞬間、未来は決定される。


***


 眼前の空間が光に呑まれる。
 眩しさに目を細めた兵士たちの視線を次の瞬間に惹き付けたのは、いつのまにか馬上の人となっていた彼らの英雄であった。
 刃と違って血を流すことのない棍。
 それで大きく青すぎる空を円を描いて切り取ると、ぴたりと照準を向かう敵に合わせる。
「ここから先は手出し無用だ、星見の魔女に竜洞騎士団長」
 まっすぐ水平に伸ばした腕を垂直まで振り上げて、振り下ろしざまに宣言する。
「これは、俺たち人間の戦いだ」
 戦闘開始の合図だった。



 帝国軍が崩れるのは早かった。
 ここで解放軍にロッカクの里の生き残りと合流したこと、竜騎士たちの空からの攻撃という要素もあるだろう。 しかし、それ以上に怪物によって保たれていた圧倒的な数の優位が崩されたことが大きかった。
 勝てないとわかるや否や、逃げ出すならばまだしも、仲間であるはずの帝国兵に剣を向ける者まで出てくる始末だ。
 その混沌とした状況を楽しむように黒い闇が駆けていた。
 彼の回りは敵も味方もなく血に沈んでいく。
 人間業ではない。
 黒の男ひとりに一団が圧倒されている。
 先ほど消えていった怪物と違って、こちらはきちんと人間のかたちをしている。少なくとも、そう見える。
 だが、振う剣の威力だけでなく、肉体は人間の域を凌駕しているとしか言えなかった。 何十人を斬り捨てたかは判然としないが、太刀筋ひとつはおろか、息のひとつも乱れてはいない。 しかも殺し足りないというように一人を屠る瞬間には次の獲物を探しているのがわかる。
 こんな得体の知れない存在に無闇に突撃できる人間はそうそういない。
 ……が。
 男の動きが止まった。
 何かを察知したような、そんな。
 中途半端に抉った剣を引き抜くと、一撃で死ぬことができなかった相手を見下ろすことすらなく遠くへ視線を馳せる。
「あいつか」
 言葉を聞き取れるとしたら、足下で悶えている瀕死の兵士だったが、当然ながら彼にはそんな余裕はない。
 ユーバーもそれを意に介することなく、血に濡れた刃を一振りして真紅を流し落とす。どういう材質でできているのか、それだけで刃は煌めきを取り戻す。
「そろそろこの軍もおしまいだな」
 言葉とは裏腹に、そこに危機感や焦燥は含まれてはいない。淡々とした事実だけを表現していた。
 一方で次の声には落胆が読み取れなくもなかった。
「……この国の混沌もこれまでか」
 まるで、それだけが心残りだとでも言うように。
 そこでようやく彼は足下で足掻く血だるまに目をやった。
 まさに虫の息。それでも放っておけば何十分かの苦しみが死の安楽の前に待っているはずだ。
 無表情のまま、男は足でそれを踏みにじる。
 断末魔の絶叫。
 激しく、次第に弱く。ついには消えて、ただの物体になる。
 最期の痙攣が収まると同時、彼は敵である反乱軍に無防備に背を見せた。そのまま悠然とした足取りで去って行く。
 あまりに隙だらけに見えるそれに、斬りかかろうとする者は誰もいなかった。



「こ、これはユーバー様、ご無事で!」
 後方支援、といえば聞こえはいいかもしれないが、単純に前線から逃げただけのカナンが歩み寄ってくる上官に声をかける。 そのくせ、黒い鎧のうえからでもわかるほどの夥しい返り血に怯えている。ある一定以上の距離から近づこうともしない。
 いつものようにユーバーはそれを無視した。
 すたすたと歩いて行ってしまう。
 これは彼のいつもの行動と一緒だったので、カナンも気にしなかった。コバンザメよろしく後をついていくだけだ。
 しかし、ある程度まで行って気がつく。
 この方向は上官に与えられたテントの方向ではない。さらには、ウィンディの居る方向でもなかった。
 怒りを買うのを承知で、震える声が絞り出される。
「ユーバー様、あの」
 予想を裏切って男の足が緩まる。
「一体どち」
 言葉は皆まで続かなかった。
 ひゅ・というあまりに軽すぎる音が流れたかと思った瞬間には、それを認識する意識が既にこの世から消えていた。
 名ばかりの副官が倒れ伏す音を耳にしてユーバーは鼻を鳴らす。
 面白くない。
 手慰みにもならない。
 この薄汚い生き物だけではない。
 既にウィンディが引き起こした戦争自体に興味を感じなくなっていた。
 これ以上、とどまっていても。
 望む展開にはならない。
 しかも、どうやって嗅ぎ付けたのかはわからないが、あちらの陣営には彼の片割れが居る。ここで顔を合わせればろくな事態には転がらないだろう。
 ならば、自分はどうすればいいのか。
 答えは簡単に過ぎる。
 さっさとここから離れればいいのだ。
 単純な判断に足を動かしかけ、ふと男が止まった。首から上だけで振り返る。
 注いだ視線、その先でたぷりと流れたばかりの血が蠢いた。魔力。
 反射で一歩退けば、赤い鎖が空を薙いだ。
「おやおや、猫の鈴が切れたと思ったら」
 声が降る。
 ドレスが血に染まるのも構わずに、ウィンディが立っていた。
「敵前逃亡かい?ユーバー」
「鈴とはそれのことか?」
 質問には答えずに、質問。面倒くさそうに、転がったカナンの死体を指差した。
「そうともいえるわねえ」
 別にこんなことを期待して掛けた術ではなかったのだけれど。歌うように呟いて、ウィンディは逸れかけた話を元に戻す。
「それで?どういうつもりなのかしら?」
「何がだ?」
「目の前の獲物を無視して、どこに行こうとしているのかしら?」
 魔物は、鎧のうえからでもわかるように器用に肩を竦めた。
「飽きた。これ以上ここにいてもつまらん。おれは下りさせてもらうぞ」
 あっさりと放たれた決別の言葉。
 女の頭が真白に染まる。
「どういう……こと?」
 ややあって絞り出されたのは、彼女にしてはひねりのない単語だった。
「おれがおまえについてきたのは、おまえのやり方が気に入っていたからだ。だが、今のおまえのやり方は気に入らん。それだけだ」
「何を言いたいのかしら、ユーバー。私は何も変わっていないわ。どんなことをしても<ソウルイーター>を手に入れる。ハルモニアを滅ぼす。 そのためにどれほどの命が奪われようと構わない」
「どんなことをしても?」
 男が鼻でわらった。
「今のこれが『どんなことをしても』なのか?」
 本当にそう思っているのであれば、……そう、例えば。赤月帝国を都市同盟に売れば良い。背後から突かれれば、この国は現在崩壊するしかない。 共倒れしたところで、紋章を奪い取るだけで終わる。あるいは。バルバロッサをもっと早くに元の名君に戻してやればよかったのだ。 <覇王>と<竜>と<ソウルイーター>。その三つの手綱を握ることが可能だっただろうに。
 ハルモニアに対抗できるだけの強大な力を得るためであれば、何も<ソウルイーター>に固執することはない。
 なのに、彼女はそれができなかった。できなくなっていた。かつてであれば、難なくやってのけただろうに。
 何を怖れてウィンディがそれをできなかったのかはどうでもいい。ただ、既に手遅れなのは明らかだ。
 この国に訪れた混沌はもうじき終わる。秩序に則った国が作られる。
 それだけであれば、ユーバーもウィンディから離れようとは考えなかっただろう。
 目的は異なれど、恐れを知らず破壊をまき散らす彼女が嫌いではなかったのだから。
 しかし、もう違う。
 なんだかわからないが『怖れる』ことを知ってしまった彼女は、もう善き隣人とは言えまい。
「まあ、おまえがこの国を捨ててもう一度やり直すと言うのであれば考えてやらんでもないがな」
 そのくらいの余地がある程度には、長い付き合いだ。
 どこか余裕ぶった魔物の態度に、ウィンディは腕を勢い良く振り下ろした。異界を司る<門>の力で空間が割け、男の頬に一筋の赤を刻む。
「この国を捨てるですって?なんてことをいうのかしら、所詮は魔物の浅知恵ね!」
 今まで聞いたこともない、感情的な音だった。顔は青ざめ、目だけが異様な熱を持っていた。
「おまえとの契約も終わりよ!どこへでも行くといいわ!」
 くるりとユーバーは背を向けた。再び歩き出す。
 未練など微塵も感じさせない背中に、ウィンディは声を投げつける。
「私にはバルバロッサがいるのだから!」
 ああ、そうかと魔物は頬を緩めた。
 お前が怖れているのは、その男か。



 司令官、そして名ばかりとはいえ副司令官を失った帝国軍は潰走を始める。
 だが、逃げる先も既に沈み始めているということを。
 誰もが言葉にせずとも実感していた。


<2006.05.21>


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