百花陵乱2 |
月から生まれるように、女はふわりと地に足をつけた。 寝静まった宿営地。戦闘の最中ではないが、見張りのひとりも声をあげないのはだらけきっているというよりも不自然だった。もはや、兵士たちは惰性で帝国軍に属しているだけだ。多少でも抜けようという素振りがあった者は、おそらくユーバーが始末してしまったのだろう。 そんななか、煌煌と光が漏れているテントがひとつだけあった。これまた戦場には不釣り合いな楽の音が聴こえてくる。 他のテントよりも一段立派なそれは、司令官クラスが使う。 そちらに足を向けかけ、ウィンディはさくりと歩みを止めた。 「ユーバー」 いつの間にか、黒い鎧に身を包んだ男が背後に立っていた。抜き放った剣は、間違いなく彼女の背中から心臓を貫ける位置と角度だ。 「退屈そうじゃないの」 「ヒマだ」 魔女の言葉を男は肯定した。剣を下ろさぬまま、呟く。 「最近は、逃げようとするゴミどもも刈り尽くした。どうせならば太った豚も料理しようと思っていたところに貴様が現れた」 彼の副官として配属されたカナンを血祭りにしたい、ということらしい。それをウィンディの出現で邪魔されて不機嫌になっているようだ。 「それで、わたしを相手にするつもり?やめておきなさいな。あなたのお楽しみが減るだけよ」 ユーバーの気持ちがわからないわけではないけれど、と彼女は心だけで呟く。 もっとも、ウィンディの理由は彼とはまったく違う。 たいした戦力にもならず、忠誠もなく、ただ上に追従しへつらうだけの小物がこのうえなく不愉快なのだ。 せめてサンチェスほどの忠義か、ルックほどの有能さを持っていればよかったものの。 手のひらからすり抜けた残滓を思って、頭を振る。あれだけ目をかけさせておきながら自分を裏切った者たちのことなど知るものか。 「なにか言いたいことでもあるの?」 歩き出した背に視線を感じ、ウィンディは振り返らずに魔物に問う。 対する答えは笑みを含む。 「いや、おまえも変わったと思っただけだ」 変わった? どこが。 今も昔も、復讐のために生きている。それ以外のすべてを犠牲にして。犠牲とも思わず。 「なんだ、気がついていないのか」 呟きは続く。 「今までのおまえなら。もう次を探していたぞ?」 沈みかけた船にここまでしがみつくことなどしなかった。ユーバーにこの場で皆殺しを許し、混沌を求める彼を諌めようとはしなかった。いわんや、今のように事前に釘を差しておくことなど。 指摘に女は微笑んだ。 そんな理由はとっくに出ているではないか。こんな容易いことが、どうしてのみこめないのだろう。 「やっと見つけた<ソウルイーター>に強力な後ろ盾。どちらも簡単に手放せるわけではないでしょう?」 返事はなかった。 満足して歩き出す彼女の耳には入らなかった。 おまえがそう思いたいのであれば、それでもかまわん。 予告もなしにウィンディは天幕の入り口を開け放った。 あがっていた嬌声がぱたりと止む。 でっぷりと太ったカナンの太ももから、女が慌てて転がり落ちた。戦場ではありえないような豪勢な料理の匂いが鼻についた。 「ウィ、ウィンディさ……」 突然の事態に対応できずに目を泳がせている男を軽侮の冷たさで眺め、無言で手を振った。無様に転がっていた女が掻き消える。文字通り。 「ひ……っ」 「殺してはいないわ。どこに出たかはわからないけれど」 目標を定めずに開いた門に放り込んだ。この世界のどこかに落とした感覚はあったから、運が良ければ生きているだろう。死んでいる可能性の方が高いが、運がなかったというものだろう。 「それにしてもカナン。こんな辺境では退屈しているようね?」 食に贅を尽くし、色にうつつを抜かす。 あからさまな揶揄であったが、それすらもこの頭の悪い男には通じなかった。 「ええ、はい、そうでございますとも!敵も陛下のお力を怖れ、まったく手を出してきません」 「本当にそう思っていて?」 重ねる問いに、男ははっとした顔を作った。が、さらに見当違いな言葉を発してくる。 「いいえ!陛下だけのお力ではなく、ウィンディさまの類稀なるお力にもおののいているのでしょう!」 もはや侮蔑も通り越して脱力しかない。 彼をまともに相手にするのも馬鹿げている。ユーバーのような異界の生き物だと割り切ってしまおう。そうでなければやっていられない。 現在までこの地が戦場とならなかったのは、反乱軍が他の土地……北方や水上砦に手を掛けていたからだ。いわば、彼らは帝都に進軍する前に背後や左右を完全に固めていたためだ。その備えが終わった以上、次に一撃が加えられる場所は少しでも頭のある者であれば容易に想像がつく。 それすらもできないだと。 ユーバーの副官としてつけたつもりだったが、あの魔物の方が頭が回るようでは絶望的だ。 「あなた、今の兵力を知っていて?」 「へ?」 突然の切り替えに男は間抜け面を曝し、カナンはうろうろと指を折って数えた。そんな真似をする必要もあるまい。自分の愚かさを余計に披露している。 「じゅ、じゅうまん……?」 その五分の一だ。 親切に教えてやろうか。 考えはすぐに破棄した。 それくらいの頭数がいれば、反乱軍を抑え込めるかもしれない。 そして、それを実行できるだけの力が、己にはある。 「そう、十万……」 揃えようではないか。 もし義妹が出てきたとしても、レックナートの力ではウィンディにかなわない。 反乱軍を潰し、志を忘れた一族に思い知らせてやる。 そのために、自分は今、生きている。 *** 湖の風は気持ちがよかった。 普通の人間にとっては強すぎるような風でも、彼にとっては関係ない。 耳元で楽し気に渦を描いた風をそのままに、ルックはトラン城の柵に腰掛け、足を揺らす。 空に散らばる星を眺める。 言われるままにここに来たが、特にやることはない。仕方なく彼は頭上を見上げる。 一見無秩序なそれを秩序だって結んでいく。星座。 北の地から眺めた夜空とトランの空とでは、やはり見えるものが違う。 けれども、宿星がこの地に集ったとて、別に星の数が増えたり、明るさが変わったりするわけではない。 簡単に脳裏で描く天球儀とかちり一致する。 そのときだった。 まるで計ったように、屋上一面がぼうっと燐光を放つ。 「何」 思わず零れた呟き。同時に床に一斉に直線が走った。呪陣。 レックナートの仕業だろう。彼女が張り巡らせた結界のなか、さらに力場が生まれていた。 反射で避けようとしたが、屋上に閉じ込められている以上逃げ場などない。宙へ逃げるという選択肢は浮かばなかった。 引きずられる。 力が。 魔力とも体力とも違う何かが、身体から引き抜かれ、陣の中央へと流れて行く。その真下は。 星主のいる広間。 「そういうことか」 推測でしかないが、下の広間にもこれと同じような呪陣が描かれているはずだ。中心にいるのは星見の魔女。 集めた力を利用して、<門>の裏の持つ力を逆流させる。彼女の紋章では、ウィンディと違って自由自在に召喚を行うことができない。宿星の持つ力を結集させて、自身の力を逆転し、死者を呼び戻すつもりだろう。 リン=マクドールの右手に眠る死者を。 (もっと他の手段に使えばいいのに!) 死者を蘇らせるなどと言う、最も自然の摂理を無視するような方法で、定められた運命を変えるのではなく。もっと、他のことに使えばいいのに。例えば、死にかけている軍師の生命を救うのであれば、許容できるのに。 なぜなら、こうやって取り戻された命は、きっとどこかが歪んでいるに違いないのだ。外法によって生まれたルックが歪んでいるのと同じく。 だが、一方でルックは期待してしまっていた。 右手に眠る誰が戻ってくるのか。 四分の一の確率。 否、もっと低い。 星が取り戻そうとするのは、仲間である星。そして、彼は宿星ではない、はずだ。 けれども。 こころで呼びかけた名前を遮るように、光が泡立ち、溢れる。 決して目を灼かない光の中、見えた気がした人影は誰かを送り出しているようだった。 どうしてもそれは、錯覚とは思えなかった。 呼ばれている。 ふわふわとした乳白色の空間で、彼は思った。 大切な、大切な声がする。 だが、呼ばれているのは理解できてもどう動けばいいかまったくわからなかった。 前にも述べたように、空間はただひたすら濃い霧のなかに沈んでいて、左右はおろか上下の感覚さえ危ういのだから。 考えて、彼ははっとする。 いつからここにいるのだろうか。 大切なこの声の主を守るために、身を投げ出したことは覚えている。 今にも逃げ出そうとする足を叱咤する。足下からぞろぞろと這い上がってくる茶色い。灼かれるような痛み。悲鳴を上げないように喉で殺して主に応えた。これが己の選んだ道だと。 それ以上の記憶がない。ふつりと途切れている。 自分はいったい……。 意識がこうやってあるということは生きているということか。ああ、これは夢?眠っているだけ? やらなければならないことが山積みであるはずなのに、こんなところを漂っているなんてどうかしている。 早く行かなければ。呼ばれているのだ。食事の催促か、いつものごとくに悪戯にひっかけようとしているのか。……後者はないと思いたい。もう仕官するような立派な年齢になったのだから。 ああ、でも。 「テッド君がいたら別かもしれないでしょうねえ」 「おれがどうしたって?」 「わわわっ」 呟いた声に思いがけず返答があり、しかもそれは噂の人物で、彼は自分でも大げさと思うほどの声を発した。 「ひどいなあ、その驚きっぷり」 演技じゃないのがまたすごいよなあ。 いつのまに現れたのか、ただ白かった空間に鮮やかな蒼が浮かんでいた。 滑るように近づいて、テッドは青年の顔を見上げた。 「こんなところで何をしているんだ?」 「何をしているんでしょうねえ」 気がついたらここにいて、ぼうっとしていただけ。尋ねられても答えはみつからなかった。 『……ミ…』 どこからともなく、再び声が響いた。 彼は反射で天を仰ぎ、テッドもまたそれに倣った。 「あいつが呼んでるぜ」 テッドが告げる。 言外に行かなくてもいいか質していた。 「テッド君こそ行かなくてもいいんですか?」 「呼ばれてるのはおれじゃない」 「でも……」 こんな守り役よりも、親友であるテッドが近くにいた方が主のためになるのではないだろうか。ただひたすらに守るしかできない自分よりは。共に高め、成長することのできるテッドの方が、主の傍らにいるには相応しいのではないだろうか。 躊躇を見透かしたように、少年の姿をしたその人は微笑む。 「おれに比べたらグレミオさんは十分に若いよ」 今まで隠し続けてきた百五十年の重みが放たれる。 雰囲気に彼は飲まれる。 「それに、この声は星を呼ぶ声だ。おれは今回の宿星じゃない」 どころか、この愛しき死神の右手に眠る魂のうち、此度の宿星であるのはグレミオのみ。彼が拒んだからといって、他の誰かに順番が回るわけではない。 もし仮にそうだとしても、テッドは全力で拒む自分を自覚している。もう自分は十分に生きた。それに。 「いきなよ。グレミオ」 初めて呼び捨てにする。 「でも……」 まだ振り返る青年の背をテッドは押した。早くしなければ道が閉じてしまう。 宿星の力で無理矢理<ソウルイーター>を開いているのだ。今も紋章はせっかく捕らえた魂を手放すまいと抵抗している。 「おれはこの場を維持するので手一杯なんだ」 かつての紋章の主として、グレミオに向かって噴き出す引力をテッドは一身に引き受けている。だが、真の紋章と縁のない生活を送ってきた青年には通じなかったようだ。 「え?」 戸惑った声。状況を理解できず、青年は動こうとはしない。 このままでは埒があかない。 判断してテッドは実力行使に出る。 体格的にはグレミオに劣っても、体術などでは決してひけをとらない。むしろ、身体の成長が止まってしまった分、効率的な力のふるい方を身につけている。 そんなテッドの蹴りがまともにグレミオの腹に入る。 「う、テ」 呻き声と、さらに名前を呼ぼうとしたのだろうが、続かない。 よろめいた身体をひょいとさらに足で転がす。霧の向こうに押し出すように。 途端に、声の引力が強くなった。痛みではなく立ち上がることができず、外へ外へと引きずられていく。 『グレミオ!』 「いけよ、グレミオ!」 でも。訴える目が叫ぶテッドを凝視して止まる。 「あいつの努力を無駄にするんじゃねえ!」 黒い靄がテッドの背後に広がっていた。遠く離れてそれがわかる。そして、彼が全霊でそれを留めているのがわかる。それは自分が決して手を出せない領域。 「申し訳ないとか思うんだったら!」 ぐんと視界が流れた。急速に叫ぶ少年が遠ざかる。 「いつまでもあいつの側で掃除でも料理でも洗濯でもしてやってくれ!」 焼き付いた残像は、闇の中でもなお確固たる存在。 <2006.05.19>
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