奏幻想滸伝
          臥竜天青8


 力が反動のように戻ってくる。
 それを感じながら、ルックは地面にへたり込む自分を他人事のように認識していた。
 瞳に映るのは、空。その下の世界のどこにも、彼の命の気配はない。
 強い魔力を持つ彼の気配、しかも一年以上の時間を近しい空間で過ごした彼の気配を、岩一枚隔てただけの自分が感じとれないなんて、そんなのは。
 役目が終わったとばかりに星見の魔女の檻が解かれたのも、今は意識の外にあった。
 本当はこんなに必死になって気配を探らなくても、結末なんてわかっている。
 彼に注ぎ続けた真の紋章の力、行き場を失ったそれが再びルック自身を満たしている。
 結界がなくなったことを感じとったのか、鳥が一羽、また一羽と舞い降りてきた。鳴き声を上げることもなく、首を傾げるような仕草で少年を取り囲んでいた。
 そのなかの一羽が、とんとんとルックの正面へ寄っていく。
 空を見る少年の膝をつんとつついて、意識を向けさせる。
「おまえ……」
 視線を向けたルックに応えるよう、鳥は低く囀った。鳥は見たままを語る。ウィンディ、反乱軍の軍主、テッド。彼らのやり取り。
「そう……ありがとう」
 一通り聞いて、ルックは両手を握りしめる。強く、血が流れても構わないというほどに。
 テッドは、望んで死を選んだ。
 それはわかった。理解できるくらいに、彼を知っていた。
 だから彼が計算し尽くした、思うままの死を手にしたことを、「よかったね」と言ってやらなければいけない、の、だろうか。……言わなければいけないの、だろう。
 なのに。
 浮かんでくるのは、そんなものではない。
 ねえ、どうして。どうして、あんたは。
 膝の上で握りしめていた拳に、水が落ちた。
「……っ」
 どうして。どうして、あんなこと。こんなもの。
 よかったねと、言ってやらなきゃいけないのに。
 おめでとう、これであんたは本当に自由だよ。おやすみなさい。
 あんなバカなこと。生きられたのに、きっともっと。
 置いていくなんて。
 独り、置いて、逝くなんて。
 塞き止められていた涙が、決壊する。
 わかっている。わかっているんだ。
 これがあんたの選んだ道だってことくらいは。だけど、納得なんてできないんだ。
こんなにも苦しくて、胸が締め付けられる感情を……悲しいという気持ちを。どうやったら納得できるって?
 感情が溢れて、流れて、止められない。
 止めようとも考えることもできなかった。今までここまで大きく感情が揺れる経験をしたこともなかったから、方法もわからなかった。
 テオの死に面したとき、強く抑えてしまった涙。それはテッドがいたから。彼が耐えていたから、自分も耐えなければと思ってしまった。そして、耐えられてしまった。
 けれども今は誰もいなくて。支えてくれるひともいない代わりに、咎める存在もなくて。
 我慢する必要もなくて。
 生まれてから一度も零したことのないそれは、一度鍵が壊れてしまえば制御の仕方もわからずにどうしようもなかった。なんでこんなにぐちゃぐちゃな感情になっているのかもわからなくなり、まとまりのない気持ちがさらに心を乱していく。
 どれくらいそうしていただろう。
 ふと上げた視界。
 歪んだ世界に扉が見えた。ウィンディの開いた<門>。帰還命令。
 呆然と、ルックはそれを眺めた。
 帰ってこいと、あの女は告げているのだ。この状況で、何もなかったかのようにルックを招いている。
 テッドを殺した彼女が。あんな死に方をしなくてもいい人間をあんな風に殺した彼女が。
 戻りたくない。
 初めてそう思った。
 あの女の顔を見て、あの女に命令されて、それに従うなんて嫌だ。たとえ演技にしたってごめんだ。 ウィンディの側にいれないことで任務を達成するのが難しくなるというのだったら、それでいい。
 予想していながらも、あえて考えないようにしていた結末に直面したことで。今まで無意識のうちになるべく感じないようにしていた感情が飽和状態にあった。 押し出された理性の入る余地はない。
 ハルモニアに帰ろう。
 のろりとルックは立ち上がった。
 整理のつかない心のままにウィンディの門に向かって魔力を叩き付けてやりたい気もしたが、それさえも億劫だった。
 ハルモニアの円の宮殿へそのまま跳ぼうと魔力を集めて、ふと考えを改める。
 集中したそれを転移から浮力へと変えて、彼は山を越えた。目的地までの距離は短かった。岩一枚分。
 つられるように空へ舞い上がった鳥は、着地したルックを遠巻きにしていた。
 対決の現場。
 降り立って、ルックは丁寧に置き忘れられたような友人の前に立った。リン=マクドールたち一行が谷を去るときに整えていったのだろう。 衣服や髪に乱れたところはなく、両手はきちんと胸の上で組まれていた。
「置いていったんだ……」
 ぽつりとくちびるから零れた。ここから遺体を運び出すのは難しく、ましてや生きている人間だけで手一杯の竜に乗せられる余裕もない。
 理性はそう判断を下した。
 けれども湧いてくるのは文句だけ。
「一番の、親友のくせに」
 こんな場所に放り出していくなんて、どうかしている。酷い。
 ハルモニアに連れ帰って、墓を建てないと。テッドの好みそうな、質素な、すっきりと清冽な。
 横たわるテッドに手を伸ばした。
 自分以外の存在を一緒に転移するには、術者であるルックが触れていなければ行けない。


 触れる――というときだった。
 指先に電流のようなものを覚えた。止まる。何もない宙から、動かせなくなった。
 感じたのは強い想い。最期だからこそ、抉るほどに場所に刻み込まれた残留思念。込められた願い。
 そう。そこにあったのはそこで死ぬことの恨みでもウィンディへの恨みでもなかった。願いだった。彼自身の最期の願い。
 それが呼び水となって、ルックの記憶が開く。まぎれもないテッドと最後に交わした会話。グレッグミンスターの部屋。
『途中放棄なんて、みっともなくてカッコ悪い真似はするなよな〜』
 自分はどう答えた?
『しないよ、そんなこと』
 それに対するテッドの態度は?
 しばらくの沈黙があった。風は凪いで、そよとも音を立てない。鳥や獣の声もモンスターの気配さえもなかった。
 中途半端に揺れていたルックの手が下りた。
「……ごめん。あんたのことを、連れて行けない」
 一緒に行くのは、一緒に逝くことだ。すべてを放棄することだ。約束を破ることだ。本当は違うかもしれないけれど、あの会話は約束だった。そう思える。
 テッドはルックに投げ出さないことを望み、ルックはそれに頷いた。
 ハルモニアに帰るということは、それに背く。
 感情をなんとか抑えながら、確認するために音にする。自分が納得するために、耳で聴く。
「あんたはそれを望まないし、ヒクサクさまだって望まない。それに僕だってきっといつか後悔する。逃げ出したんだって」
 それは嫌だから。
「あえてあんたを置いて、僕も行くよ」
 親友だと話していたリン=マクドールと同じように、この谷を友人の墓場にする。
 最後までやり遂げるために。
「ただ、ひとつだけいいかな」
 返事もないのは当たり前。これからするのは自己満足。特定の宗教や救いを求めていなかったテッドを弔うのには滑稽に過ぎるかもしれないが、ルックにはこれしか方法がわからなかった。しかも自分はまだ神官将ですらない。
 今はこれで勘弁してもらおう。
 逃げ出さなかった証として、いつか最後を歩み始める前にもう一度やり直すことを誓う。
 胸元から鎖に通った指輪を引っ張り出すと、改めて指に嵌める。華美を許されないハルモニアの神官の唯一の装飾品は身分を表す指輪のみ。彼らの守護者の<円>へ通じる瞳。
 すっと背筋を伸ばして、息を吸い込む。弾かれたように風が鳴った。



 せめて君に葬送を。


<2005.12.7>


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