奏幻想滸伝
          臥竜天青6


「誰だ。今の声はお前か?」
 一度くるりと辺りを睥睨して、フリックが身体をわずか緊張させた。
 リンの身体も硬くなった。
 それはフリックと違って、相手が知っている人物だったからだ。ずっとずっと、何としてでももう一度会わなければならないと思っていた女だったからだ。
 女は、最後に見たときと同じように豪奢に着飾っていた。臣民が餓えに喘ぎ、死と隣り合わせの生活を送っているというのに、そのような陰は知らないとばかりの美貌だった。
 場違いに甘い声が、水晶の谷に響く。
「よくここまで来たわね。でも、月下草を持って帰らせるわけにはいかないわよ」
「誰だか知らないが、こっちは苦労してここまで来たんだ。こいつはもらっていくぞ!」
 威嚇のためかフリックが乱暴に怒鳴ると、剣へと手をかけた。
 それを認めて、彼女の蒼く冷たい瞳がすっと細められる。
「おや、まあ……。元気な青年ね。でも」
 彼女の手のひらへ急速に光が集まる。気配にフリックが剣を抜いた。彼も紋章を扱うだけに、魔力の収束くらいは感知できる。
「私はリン=マクドールと話をしているの。静かにしていてね」
 終わると同時、ウィンディの手から白い雷撃がほとばしった。合わせる動きでフリックが剣を彼方へと滑らせる。 金属に吸い寄せられた電気の塊が軍主たちを傷つけることはなかった。
 だが、武器を手放し。かつ今の紋章術の威力で彼女の実力との被我の差を感じとったのか、軍主の動向を見守る姿勢になる。
 それを確認して、ウィンディはリンへと焦点を当てた。
「さあ、リン。そろそろ解放軍ごっこも飽きたでしょう?お友達を取り戻すための大掛かりな手段に過ぎないんですもの。それでいて、背負うものは大きすぎるのはなくて?」
 リンが解放軍の軍主に収まったのは、テッドのためではないのかとウィンディは指摘する。それは正しく、そのくせ間違っている。
 この場にいるメンバーはミリアを覗いて解放軍では古参の者だ。軍主の私情も知っているし、それを認めている。それだけでないから、彼らはリンについていくのである。
 彼女がとっておきに暴露しても、空気が揺れることはなかった。
 あまり効果がなかったことに内心で舌打ちしつつ、ウィンディは表情には出さない。
 傲慢に腕を組んで、宣言する。
「あなたのその右手の紋章、<ソウルイーター>を渡してもらいますよ」
「冗談も大概にして欲しいね、宮廷魔術師ウィンディ」
 押し殺したリンの声が響いた。クレオがぞっと一歩退くほどの暗い声だった。
 また、ミリアを初め、他の者たちもいっせいに戦闘態勢に入る。 今のリンの言葉で、相手が赤月帝国を腐敗に追いやった張本人であり、戦争が終わらない元凶でもあることに気がついたのだ。 フリックは飛ばした剣の位置を確認している。
 静かに棍で間合いをはかるリンを認めて、ウィンディは微笑む。たしなめるような、上位者の種類だった。
 殺気に囲まれても、彼女の雰囲気は害されたりしていなかった。
「そんなに恐い顔をしないでちょうだい、リン。力ずくで奪ったりはしないわ。そうねえ、もうちょっとエレガントな方法よ。出ていらっしゃい」
 ウィンディの隣の地面が光を放った。
 紅のくちびるが、現れる人影を決定する。
「テッド」



 暗闇を照らすのはいつも炎だ。
 温かい光ではない。残酷で凶暴なそれは、たぶん生まれ育った村に放たれたそれだろうとテッドは考えている。 三百年も生きているから、両手では足りないほどの戦渦に行き会ったし、火に呑まれる城も村も船も見た。
 だが、それは最初にすべてが崩壊したときの炎だとテッドは確信している。
 炎に巻かれそうになっているのに、足が動かない。見れば血のように赤い鎖で両足首を戒められているのだ。
 いや、ような、ではない。実際に、血なのだ。
 今まで喰らってきた人の血液でできている足枷。祖父をはじめ、多くの。その鮮やかさにぞっとする。
 炎の勢いに。喉を焼く煙に。朦朧としていく自我。
 いっそ意識を失ってしまった方が楽だと知っている。それがブラックルーンに塗りつぶされる最後の瞬間だともわかっていて。喩えようもないほどの誘惑。
 だけれど。
 抗っていられるのは。
 そこに彼がいると知っているから。
 三百年前のあの日、燃える村から手をひいてくれた彼が。
 最初で最後の、最高の親友が待っていると知っているから。
 消えるものか。
 あの女は自分を操ってリンに仕掛ける気だ。
 絶対に彼に会える。
 それは喜ぶべきこと。
 伝えられなかったこと、伝えきれなかったこと、伝えなければならないこと。
 成し遂げるために、密やかに知識を蓄えた。
 ブラックルーンは闇の紋章を改竄したもの。闇の紋章は<ソウルイーター>の眷属。 つまり、<ソウルイーター>を介してであれば逆に支配することができる。吸血鬼の始祖ほど特殊ではないが、三百年もあれと付き合ったのだ。それなりの縁は残っている。
 支配のために流れ込む魔力の量はウィンディとルックのものが拮抗しているし、テッドの気合いでウィンディの支配を短時間であれば抑え込むことも可能。
 不安といえば。すべてが終わったあとに、この魔力の件がウィンディにバレて、ルックが責められることだ。……まあ、彼ならばなんとか切り抜けられるだろうが。
 そういえば人形のように突っ立っていた横で、ウィンディがルックに命じていた。シークの谷の側で待機していろと。 もとが表情の変化に乏しい少年だからあの女は気がついていなかったようだが、彼の目がわずかに歪んだのを見逃せなかった。
 そんな顔をしなくてもいい。ルックには感謝してもいいくらいなのに。
 ウィンディに捕まった瞬間から、これは決まっていたことだ。 不敬罪を働いた犯罪者として、城の暗く湿った地下牢に誰に知られるともなく閉じ込められるくらいが妥当だったのに、最後まで。この世界を見ることができた。
 だが、彼は自分を責めるだろう。結局、何もできなかったと。
 自分だから、できなかったと。
 テッドが知る中で一二を争うくらいに自身に対する軽蔑と嘲笑が強い彼だから思うだろう。もし代わりにササライであったならば、どうにかできたのではないかと。
 バカだなあ。
 お前だから楽しかったんだよ。
 お前たちがそっくり同じ顔して同じ服着てても、おれは間違えずにお前を指す。おれの右側はあいつの場所だから勘弁だけど、左なら空いているから。
 なあ、ルッ……。


 光が射した。


 実際には闇に間違いなかった。けれども、今のテッドにとっては光に等しい。
 彼は思考を停止させるとやんわりと微笑んだ。
<ソウルイーター>。
 三百年の相棒。その向こうに、囚われの年月に焦がれた姿がある。
 認識して手を伸ばした。読んだ本で方法だけは組み立てたものの、実行するのはこれが一度きりの機会。どうかうまくいってくれ。
 途端、テッドの意識を苛んでいた炎が消滅する。ブラックルーンが上位紋章である<ソウルイーター>と、その手綱を握る者に場を譲ったのだ。
 蝋燭ほどの炎すらない空間は、漆黒。だが、リンの姿だけは不思議ときちんと認められる。彼から見ても、テッドだけはわかるに違いない。
 何かを問われる前に先手を打つ。
「リン、おれの声が聞こえるか?」
「……ああ」
 突然の視界の切り替わりに戸惑ってはいるものの、彼は取り乱したり慌てたりはしなかった。 そういえばテオがルックの作り上げた空間に招待されたときも、似たような表情をしていたな。さすが親子。
「テッド、これは一体……。というかお前これまで」
「は〜い、止め。質問攻めなら後だってできるだろ?」
 軽く言って歩み寄った。
 あまり時間がないことはあえて伏せた。鋭い親友のこと、その単語だけでさらに問いつめてくるに決まっている。
 だからありもしない『後』を匂わせて口を封じる。もしかすると、封じられてくれているのかもしれない。
「今、おれたちが実際に立っている場所はシークの谷。おれがウィンディの横で、お前がクレオさんの前。 ただし、からだはその場にあって近づいてもいないし、一言も話したりしてない」
「は?でも……」
「いわば紋章を通じて精神だけで会話しているってこと」
 テッドは右手を上げると、そこに刻まれた紋章をリンへ見せる。次いでリンの右手を示した。
「紋章とそれを持っていたもの、つまりおれと<ソウルイーター>のあいだには、三百年とも言うべき腐れ縁が残っているわけだ。 このブラックルーンは変則的だけど<ソウルイーター>の眷属だから、これを通じて<ソウルイーター>に、つまりおまえに話しかけている」
「なるほど」
 納得したのか、リンはテッドの右手をとった。別れるときまで常に隠されていたそれは、はばかることなく曝されている。ただ、違うのは刻まれた紋章だけ。
「そうか、じゃあさっさと逃げる作戦を立てよう。この空間はウィンディにはわからないんだろう?だったら……」
 テッドは息を吸い込んだ。
 生き生きと輝いた親友の瞳が痛い。一緒に逃げようと言ってくれ、その方法まで楽しそうに考えている。
 しかし、それはできない。どうやっても。
 口だけで頷くことは、きっとできる。それをしたくない。守れない約束など、彼を苦しめるだけ。
「リン、悪いけどできない」
「何を言っているんだ。そりゃあ、ウィンディの力は強力かもしれないけど、裏をかく方法なんか」
「そういうわけじゃない。おれの身体はウィンディのブラックルーンによってすでにおれのものじゃない。 いくつかの幸運で心までは支配されていないってだけだ。けど、それもどこまで保つか……まあ、三日ってところか」
「外せ」
 据わった目でリンが一刀両断した。あまりに簡潔な言葉にテッドは一瞬だがついていけなかった。何をいったんだ、こいつは。
「はい?」
「だから外せ。クワンダもミルイヒもそれで戻ってるんだから……」
「無理だって。場合が違いすぎるからさ。できない約束は、したくないんだ」
 軽く微笑んで、一歩退く。
 他に話したいことはたくさんあった気がする。
 おまえに会えて幸せだったよ。
 今まで生きてきて、一番楽しい時間だった。
 ありがとう。
 さようなら。
 どれもがどうしても言葉にならなかった。だったら、きっとそれは伝えなくてもいいものなのだ。感情を全てにかたちを与える必要なんてないし、所詮は無理だから。
 ああ、けれどもこれだけは伝えておこう。
 おまえの重荷にだけはなりたくないんだ。
「リン、一生のお願いだ……。おれがこれからすることを赦してほしい……」
 おまえにこんなことを押し付けたおれを、どうか。


<2005.12.4>


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