臥竜天青5 |
薬の材料は月下草、黒竜蘭、そしてあとひとつ。 一番入手が簡単だという月下草を求めて、軍主のリン=マクドールを初めとした一行はシークの谷を歩いていた。 先頭は道案内にとつけられた竜洞騎士団副団長のミリアだ。 高速で風をきって飛ぶ竜の背で戦えるよう訓練されているせいか、女性であることを感じさせない力強い足取りである。 軍主たちですらも、整えられていない足場の悪さにやや速度が落ちているが、彼女はずんずんと進んでいく。 竜を目覚めさせなければという使命感も、ミリアに活力を与えているのかもしれなかった。 「ササライくんを連れてこなくてよかったですね、坊ちゃん」 軽く息を切らしながらクレオがリンの背中に呼びかけた。 「そうだなあ。あいつのことだから、一番先に脱落しそうだよなあ」 肩を落としながらフリックも続く。ササライの体力のなさは解放軍でも有名だった。 「ササライがいたら、真っ先にこのでこぼこ道を平らにしてもらうさ」 凹凸さえなくなれば、傾斜が特別きついわけではないこの道に苦労することはない。 リンの主張になるほど、それは失敗したと口々に声を上げたが、実現しなかった仮定だ。話題の主役は師から招集があったとかで、城を離れざるを得なかったのだ。 もっとも、辺りを見回してリンは多少の後悔を覚えた。何の用だかは深くは尋ねなかったが、これならば彼を連れてきた方が良かったかもしれない。 彼の視界に飛び込んでくるのは無惨な光景だった。緑もまばらな岩肌に、ところどころ黒い跡が散っている。――植物の残骸だった。 「あそこもダメか……」 道が拓ける度にミリアが声を上げる。 「やはり月下草だけが?」 「ええ、焼き尽くされています。月下草はこの谷でしか生えないとはいっても、ここでは雑草みたいなものなのです。だから、そこまで心配するほどではないのですが……」 「だが、薬として使うには育ってないというわけか」 「はい」 ミリアの記憶にあった月下草の群落は、今のところ全滅だった。 既に月下草が生えるというクリスタルの谷間に突入して一時間が経っているが、無事なものは見つけられなかった。 「月下草だけを狙って焼くなんて、普通の炎じゃできない。おそらく、紋章術だろうな……」 それもかなり高度な制御だ。一連の事件が帝国軍の仕業だと考えれば、宮廷魔術師であるウィンディの術の可能性がある。 それを知るためにもササライに視てもらえると助かったのだが。 「次に曲がったところが最後です。クリスタルの谷間の、一番奥です」 ミリアが堅い声音で告げる。これでなかったら終わりとの緊張をはらんだ声。 しかし、リンはそれほど心配していなかった。 竜洞を発つ前にリュウカンに確認したところ、月下草は摘んでから約一日のあいだに使わなければいけないそうだ。保存は不可能。 全てを刈り取ってしまったら、ウィンディが竜洞騎士団と交渉する切り札さえも刈ってしまうことになる。 だから、この谷の奥には。 「あ、ここは無事みたいです!」 果たしてリンの予想通りに、ミリアが声をあげた。 今までの黒い影はなく、岩に埋もれた水晶が薄い陽の光を乱反射して、谷底だというのに幻想的に明るい。 岩を割るようにして、白い草が生えている。 薄青の花弁をつけたものを指差し、フリックが尋ねた。 「月下草ってのは、これのことかな?」 問いかけに、ミリアが軽く頷いた。あまりにあるのが自然すぎたものだから、しげしげと観たことはなかったので断言は難しいが。 「たぶん、それがそうね」 明らかにほっとした表情。 つられて全員の顔が明るくなった。 リンも、ここまでたどりついたらウィンディの手で帝国軍が配されている可能性まで考えていただけに、ほっとした。 考え過ぎだったか。 確かに自分がウィンディの立場であれば、グレッグミンスターの空中庭園にしかないという黒竜蘭を守ることに全力を注ぐ方が手間もかからず、効果も高い。 黒竜蘭を手に入れるためには、今ある勢力だけでグレッグミンスターに忍び込まなければいけない。 それはあまりにも危険だ。戦争に勝つために竜洞騎士団を味方につけようというのに、最終決戦の舞台に竜洞騎士団なしで乗り込まなければいけないのである。本末転倒だ。 やはり、この内乱を終わらせるための戦力として竜洞を計算に入れるのは無理だ。 とりあえずの現状から、背後から突かれることはないという安心材料を得たとのことで満足しなければ。 主の駆け巡る思考を読み取れるわけもなく、他の面々は月下草が手に入ることを喜んでいる。 クレオが根元から摘み取ろうと手を伸ばした。 「あ」 小さくリンは呟く。思いついたのだが、自分がウィンディであればいつ来るともわからない敵のためにずっと手勢を待機させておくような労力の使い方はしない。 目標が引っかかったときだけ発動する、罠。 自分だったら。 自分だったら。 「止め……」 それが摘まれたときに、仕掛ける。 瞬間。 ふつりと、空間が歪む音を聞いた気がした。 地面から魔力が立ち上る。はっと伸ばしていた腕を引き、クレオが後ろへと跳んだ。 「そうよ。これが月下草」 白く細い指先が青い花に触れていた。そこから視線を辿らせれば、鮮やかな魔術師の衣、流した金の髪。 冷たい蒼い瞳とぶつかった。 何かできないのか。 ルックは必死になって、可能性を巡る。巡って、戻ってきてしまう。あの日以来、数ヶ月もその繰り返しだった。 彼は万が一の事態の補佐との名目でここに配置されていた。月下草の生えている谷間と岩で仕切られただけの地点だ。 下されている命は待機。しかも、ルックの大きすぎる魔力を隠すためのごく狭い結界の中でだった。 おかげでウィンディの張った結界のあるこの場所から、動くことはできない。全ての行動が、彼女へと筒抜けになってしまう場所だから。 生まれてこのかた、これほど必死になっているのは初めてかもしれない。 この岩を一枚隔てた場所に彼らがいる。 現在の時点で何が起こっているのかはわからない。 けれども。 すぐの未来に何が起こるかは知っている。予想がつく。自分がウィンディの立場であれば、最も効果的だと判断する。それで余計に苛立ちが増す。 ここで待機していろと命じられて、言われるままにするしかない自分。 くやしい。 最初のクワンダ=ロスマンは何も感じなかった。 次のミルイヒ=オッペンハイマーは自業自得だと思った。 テオ=マクドールは彼の信念ゆえに、どこかで納得していた。 今回は全然違う。 この岩を吹き飛ばしてやりたい。 視線に魔力を込める勢いで睨みつける。そうしてテッドを回収して、ハルモニアに連れて行ってしまえば、真の紋章の力さえ補っていれば自由だ。 だが、ルックは同時にわかっている。 テッドはそのようなものを望まないだろう。 それを押し付けるのはウィンディと変わらない。ブラックルーンではなく、既に彼が必要としていない真の紋章で縛りつけてしまう。 ああ、でも。 ウィンディの脚本を進ませるよりは。 いっそのこと自分が打ち壊してしまった方が。 「およしなさい」 物騒な衝動を遮って、静かな女の声が降ってきた。 聞き覚えのある声だった。つい最近の記憶にはない。もっと昔の、ルックの持っている記憶の最初のあたりに刻まれた音。 きりと緑に力を込めて、そちらを睨んだ。 「魔女レックナート」 「……私のことを知っていましたか」 七年前のあの日を、牢獄から初めて出た日とその原因を忘れることなどできるものか。 「白々しい」 盲目のせいか、あるいは感じていてもさらりと無視しているのか。ルックの剣呑な雰囲気を意に介さず、彼女は微笑みさえ見せた。 「僕よりもサラを選んだあんたが、何か用?」 「嫌われてしまいましたね」 ルックは無言。それすらも面白がるように、レックナートの表情は崩れなかった。 「それにしても、愛称を付けるのであればせめて女性の名は止めたほうがいいと思いますよ?正真正銘、あなたの兄なのですから」 ササライの名前から中途半端に真ん中をとった呼び名は、これからもおそらくルックしか使わないだろう。完全な嫌がらせの産物だ。 子供をたしなめる調子のレックナートとは対照的に、ルックは魔力を溜め始めた。 ちょうどいい。これで暴れる口実ができた。後のことは後で考えるとして、とりあえずは魔女を攻撃するフリをして、この岩を破壊してテッドとリンを連れて退却する。 無謀な、しかも作戦ですらない刹那的な思いつきを読んで、レックナートは自らの紋章にそっと集中した。逃亡生活の長さではテッドの比ではない。 紋章術を行使するときの細やかさは、ルックなど足下にも及ばなかった。 溢れ出た微かな魔力がヴェールを揺らす。それだけでウィンディが張った結界の内側に沿って新たな結界が誕生していた。 「な」 「あなたがいくら魔力を外へ向けて解放しようと、全て私の結界が異界へと力を排してしまいますから」 淡々としたレックナートの言葉に、ルックは慌てるではなく笑った。 彼女の言う通りなら、この結界の内部であれば彼の術は発動するということだ。 ルックがハルモニアから拝命したのはただ一つ。真の<門>の紋章の回収。 ヒクサクが語っていたのは、ハルモニアに対する行動を起こしているウィンディについてだけだったが、怪しげに宿星とやらを召喚し続けるレックナートもウィンディと過去は一緒だ。 不穏な芽は早めに摘み取っておくに限る。 既に最初の瞬間的な思考は捨て去っていた。 今、手に宿しているのが旋風の紋章であるのは幸運だ。今回はウィンディが送還してくれるとのことで、瞬きの紋章を付け替えてきたのだ。 「輝く風」 呪文もなにもなく、ルックは最上級の術を放つ。真の紋章を持つからこそできる芸当。 「まあ、困ったこと」 さして切迫したふうもなく上げたレックナートの手が空間に円を描いた。ルックの風の凶器はそこへと吸い込まれて魔女には届かない。 <門>の紋章で他の世界に攻撃を流したのだ。 「<門>の特性くらいあの男に習ったでしょうに」 呟きがルックの耳に届くと同時、彼の足下にも光の輪が描かれる。驚いて地面を蹴ろうと視線を上げて、頭上にもまた、同様の輪が存在するのを見た。 見たことのない術にどうしようかと躊躇ったのが最後。 天地の輪を繋いで幾筋もの光がまっすぐに結ばれる。 檻。 否。 「綺麗な鳥が捕まったこと」 鳥籠。 判断を間違った自分と。残酷に的確な魔女の言葉。きりとくちびるを噛み締める。 「これはあなたのためなのですよ」 白いローブが汚れるのも構わずに歩み寄ってかがむ。彼女は悔しさの見え隠れする少年と視線を合わせた。 「あなたがお姉様に殺されてしまったら、大変ですもの」 「は。ウィンディと違って僕の正体を知っていてよくしゃあしゃあと言えるね?ああ、知ってるからこそ、か」 自嘲に歪む頬。 「僕がこんなところで何も知らないウィンディにいい加減なやり方で殺されたら、世界の天秤が一方に傾きかねないからね、自称『バランスの執行者』」 「それもありますが」 レックナートは否定しなかった。あの日、円の宮殿に忍び込んでササライを連れ出した彼女だ。 伸ばされたはずのルックの手を払って、ササライを選んだ彼女だ。ウィンディが知らない事実も、当然に知っていた。 運命の管理人のくちびるが、何かを言いたげに開いて閉じる。 続きを明らかにすることはなく、彼女はゆるく首を振った。 「今回はササライは遠ざけました。お姉様のこと、戦場に立つことはないでしょう。しばらくは安心してなさい」 「何を……」 まるで仇であるハルモニアの間諜であるルックを助けるような内容に思わずルックは問い返す。 しかし、返事の代わりに含んだ笑みだけを残して、もうひとりの魔女は自らが開いた門へと消える。 後には動くことも叶わない少年だけが取り残された。 <2005.11.30>
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