奏幻想滸伝
          臥竜天青4


「もっと早くこうしていればよかった」
 かかしのように立ち尽くす姿に、彼女は満足げに微笑んだ。
 少年は微動だにしない。ウィンディに命じられて数時間が過ぎている。だが、姿勢を崩すこともなく身体を揺らすこともない。精巧な蝋人形のようだった。
 髪を梳くように動かしても、抵抗の表情の一片も認められない。
 ……完璧な支配。
 もし彼女が命じれば。
 この顔は欺瞞のままに、自然に微笑むだろう。
 この口は流水のように、何気なく偽りを垂れるだろう。
 これで、その右手に<ソウルイーター>があればよかったのに。
 そうすれば、小細工を弄するまでもなくかの国を滅ぼすためのちからを揮うのに。
 わずかな苛立ちを思い出し、彼女は遠慮なく手を振りかぶった。
 今でこそ完全な人形にしてやったが、元はと言えばこの少年がさんざん自分の手を拒み。 挙げ句の果てには、真の紋章を持つ意味さえ知らない貴族の坊ちゃんに継承したことにあるのだ。
 ちからを込めて下ろされた手は、人形の頬にぶつかって乾いた音を立てた。勢いを殺すとか、耐えるとか、そういう意識など人形には当然存在しない。 面白いほどにあっけなく、床へと吹っ飛んだ。そのまま無理な姿勢でぴくりとも動かない。
「お立ち」
 命じれば、なめらかな動作で立ち上がる。そして、再び直立不動の姿勢に戻った。
 面白くなかった。
 この生意気な人間が思い通りになっているという満足感はある。
 一方で、どこかが面白くない。
 どうしてだろう。
 三百年も手こずらせてくれた獲物が、あっさりと手の内で踊るのが物足りないのだろうか。
 ……そうかもしれない。
 あれほどまでに欲した存在が、既に求めるものを手にしていないとあっても、思い通りに動かせる。慣れていない状況に感情がついていっていないだけ。
 ……きっとそうだ。
 だとすれば贅沢な悩みだ。 第一、 今はまだ通過点。目的は達していない。最後まで油断してはいけない。
 この人形は、今この場でこそ彼女の操るままに動く。
 しかし、元は筋金入りで反抗心に溢れた存在だ。反乱軍の軍主、現在の<ソウルイーター>の主を前にしたとき、自分の支配に対して抵抗してくることも十分にありうる。
 なんとかして、きちんと彼を支配できているという確証を得られないだろうか。
 思案し。
 ふと、彼女は近づいてくる気配に気がついた。
 さながら暴風のよう。昂る魔力を隠そうともしていない。むしろ、彼女の知るいつよりも強い気配を表していた。
 そうだ。
 ずっと同じ部屋に放り込んでいたのだ。
 建前はどうだかわからないが、それなりに親しくしていただろう。

 自らの手で殺したくはない、と。抵抗するくらいには。

 瞳だけで冷たく微笑んで、彼女は異空間から一枚の札を取り出した。
 気配はだんだんと近づいてくる。予想に違わずウィンディの部屋の前で一息立ち止まると。
 乱暴なノック。許可を出す前に勢い良く放たれる。
 少年の小柄な体躯が飛び込んでくるのを見計らって、紅いくちびるから呪が放たれる。
「静かなる湖」
 札に込められていた水の魔力が檻のように空間を支配する。
 突然の展開に何が起こっているのか把握しきれていない少年を無視して、彼女は傍らにひっそりと立っていたもうひとりの少年へと命じる。
「扉を閉めなさい」
 言うが早いか、幽霊のように動いた人影が密室を作り上げる。
 首を回した緑の瞳が、人影の正体に呟いた。
「……テッド」
 扉を閉めるという命令を守った姿勢のまま、テッドは固まっていた。次の命令が下るまで、彼は動けない。そういう風に作り上げたのだから。
 ルックは驚いてはいないようだった。ある程度、状況は予測していたのだろう。
 けれどもここからはどうか。
 ウィンディは楽しみにしながら次を指示する。
「さあ、その子供を殺しなさい」



 視線の先の彼女が口にした言葉がわからなかった。
 意味は耳に流れ込んでくる。脳が理解を拒否しているだけ。
 またもや声が降り積もる。
「どう殺してもいいというわけじゃないわ、テッド。おまえの両手で、息が詰まるまで締め上げてやりなさい」
 ウィンディの視線に促されるまま。見知った気配を追うまま。
 振り返ったところに、表情の抜け落ちた表情。
 いつのまに、と思う間もなく伸びてきた腕が首へと絡まるのをルックは他人事のように感じていた。
 それが急速に現実味を帯びたのは、圧迫感と熱を奪われていく息苦しさ。
 重力に無理矢理、逆らわされる身体。自然のままに自由落下する体重。
 反射で振り払おうとしても巧くいかない。ようよう持ち上げることのできた指は、ちからなく凶器の両手に添うのが精一杯。
 もとからの腕力がふたりは違いすぎるのだ。頼みの紋章術は、ウィンディに先手を打たれている。
 死ぬかもしれない。
 抵抗する、という選択肢がなぜだか浮かばなかった。
 操られるテッドに意志など存在しないのに、テッドであれば自分を殺さないはずだという意味のない仮定だけがぐるぐると回った。
 霞む視界の中で、紋章の気配を探ったのは無意識の習慣だった。
 吐き気がするほど厭らしい気配。彼の右手のブラックルーン。
 締められる首で密着するそれに、からだの奥が震える。この世に存在する紋章と似て非なるそれ。ルックの真の紋章が排除しようと、ゆっくりと鎌首をもたげる。
 獰猛な気配に、からだとは裏腹に思考がクリアになる。
 いくら静かなる湖がかけられているにしても、ウィンディが至近距離で爆発する真の紋章に気がつかないわけがない。 しかも真の<風>ともなれば、彼の身柄がハルモニアに関わることは明らかで誤摩化しようがない。
 それ以前に。
 自分はこんなところで、こんなふうに死ぬわけにはいかないのだ。
 脳裏に浮かぶのは、ハルモニアの神官長と交わした約束。やがて来るはずのその日まで、約束を果たすまでは勝手に死なないと約束した。
 そして普段の彼の顔。今、目の前にあるような作られた無表情ではない。あんな状況にあっても、ごく当たり前に笑って。 静かに、経た年月に相応しいように、あるいは外見に相応しいように笑って。
 そんな表情のひらめきから、思う。
 彼にこんなことをさせてはいけない。
 もし、本当に意志がないのだとしても。ないのだからこそ。
 こんなことをさせるために助けたかったんじゃない。
 左手の指先に魔力を集める。感覚だけでブラックルーンの位置を確認する。
 狙いを定める。
 紋章に支配されての行動であれば、そこを刺激してやれば、たとえ正気に戻るかは別としてもなんらかの反応があるはず。
 静かなる湖は紋章術を封じるが、術者が魔力を纏められなくなるわけではない。世界に顕現させられなくなるだけだ。
 ならば、直接に魔力を流し込んでやれば良いだけのこと。
 酸素を求めて力の抜けるからだを叱咤して。ルックは勢いをこめて黒い気配に爪を立てる。
 獲物の予期せぬ反抗に驚いたのか、一瞬、締め付けが緩んだ。
 すかさず半ば宙に浮いていた足を振り上げて、壁を蹴る要領で彼の腹を蹴って飛び退いた。
 遠ざかる人形の顔が、人間の表情に変化した僅かな時間をルックは見逃さなかった。
 けれども、それはほんの数瞬。
 激しく地面に咳き込んで、次に顔を上げたときには元の無表情に戻っていた。
「そのくらいでいいわ」
 ぱちんとウィンディが指を鳴らす。再び命令を果たそうと、ルックに近づいていたテッドの動きがぴたりと止まる。まるでゼンマイが切れたようだった。
 見ているのが辛い。
 ウィンディに何でもいいから言ってやりたかった。
 しかし、彼女の顔を見ても凍りついたように適当な言葉が浮かばない。
 こちらも糸が切れたように座り込んでいると、ルックの平坦な胸中を知らぬウィンディがテッドへ歩み寄る。
「いい具合に仕上がったじゃないか」
 だらり垂れた人形の右手をとると、一直線に引かれた紅を直す。
「これで坊やも落ちる」
 元通りの手の甲を検分し、ウィンディは未だ立ち上がれないルックへと視線を遣った。
「ご苦労だったわね。そういうわけだから、おまえは任務に戻りなさい」
 沈黙を守ったまま従う以外を、少年は思いつかなかった。



 青空に隠れる星を見ながら、女が呟く。
 旧きと新しきの転換。歪めたはずの運命でも、星だけは定めのままに動いてしまった。
 選ばれる資格のある存在は、ひとりではなかった。なのに、なぜ。
 だが、宿星となっている以上。奇蹟が起こる可能性が残っている以上。
 失うわけにはいかない。
「会わせないようにしなければ……」
 義姉のとる行動など、星を占わずとも予測がつく。また、星主が舞台へと上げそうな顔ぶれも。
 そうすれば彼女の弟子と義姉が顔を合わせるのは必至。
 なれば、かの宿星の命に関わりかねない。
 なんらかの理由をでっち上げてでも、ササライを行かせないようにしなければいけない。
 魔法兵団の長としてだけでなく個としての魔力も飛び抜けている彼を軍主がお忍びの行動での面子に入れるのを妨害するには、 いっそ魔術師の島に戻してしまうのがいいかもしれない。
「まったく……」
 どんな理由であれば、軍主をも欺いてササライを舞台から外すことができるだろう。それを考えるだけで頭が痛い。
 きっかけは自らが仕組んだことかもしれないが、こちらの思惑を無視して妨害に打って出たヒクサクに文句の百八は浴びせてやりたい。 もっとも、相手は堅固な円のなか。どうやったって叶わない。
 思い通りにならない運命を反らすため、見えぬ視界で運命の管理人は常人には見えない星を観る。


<2005.11.27>


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