奏幻想滸伝
          臥竜天青3


 シークの谷。
 灰色の外套が風に煽られて、はたはたと曲線を描いた。
 黒く細い物体が、ルックの足下、ブーツで踏みにじられて砕けて散った。
 焦げた臭い。
 植物の残骸だった。
 一面の焼け野原、ところどころからたなびく煙を風が払っていく。
 歩けば、さくさくと灰が鳴る。
 いがらっぽい空気に。風を操って避けようとして止める。吸い込んだ苦さに瞳を細めた。
 今ので最後だ。
 シークの谷に踏み入れてから、目につく月下草の群生がある度にルックは火を放った。他の場所に飛び火しないように心を配ったが、もとよりシークは岩山で、不毛の地だ。
 逃げる生き物の姿は滅多になく、あるといえば珍しい獲物が迷い込んだとばかりに襲いかかってくるモンスターの類だけだ。それも、ウィンディがルックの周囲へ張り巡らせた結界に阻まれて消滅する。
 重たくなった足取り。けれども、止めることはできない。
 ウィンディが「拾って」くれると指示した地点は谷の最奥にあるのだ。最後の月下草が生える地点でもある。
 のろのろとしか進めない自分に腹が立つ。転移魔法を使えればこんな苦労をしなくてもいいのにと思うが、その脳裏を過る万年少年年寄り。
『だから鍛えとけって言っただろー?』
 けらけらと笑う姿が、想像に過ぎないというのにやけに現実味があって不愉快だ。
 はっきりいって理不尽な苛立ち(別名:八つ当たり)を地面にぶつけつつ歩く。谷には常に強い風が吹いていてひとを妨げるが、ルックはその限りではなかった。常に彼にまといつく眷属も、その不機嫌さに遠慮してか恭しく道を譲る。
 十数分も歩いた頃、道が平らになった。岩のせいで凹凸があるのは変わらないが傾斜が消えたのだ。
 外套をおさえながら汗を拭って、顔を上げる。
 自然と開けた視界の先、一本きりの月下草が飛び込んできた。
 これしか、なかったのか。
 呆然と思った。
 先ほどまでに炎を浴びせてきた月下草は、群落と表するのに相応しく少なくとも十数本が密集していた。だから、ひとつだけ残して後は処分するようにとウィンディから命じられたときも。群落がひとつ、だと勝手に想像していたのだ。
 それが、本当に一本きりだったなんて。
 竜の気付け薬を作るのに、月下草も黒竜蘭もそれぞれが一本あれば十分だとは調べて知っている。
 だが、だからといって。真実必要な分しか残さないとは予想してもいなかった。
 もし、天候や害虫など他の原因で、この『最後』が枯れてしまったら。
 いったい、あの女はどうするつもりだったのだろう。
 今までのウィンディだったらこんなことはしなかったように思う。これは、相手を追いつめているように見えて、実際は彼女がいかに追いつめられているかを露呈してしまっている策だ。
 苦々しさを噛み殺す。
 言うまでもなく、ルックが本国から下されている命は「ウィンディから真の紋章を回収すること」。そのためには解放軍にさっさと赤月帝国を倒してもらって、彼女を追いつめて、紋章を引きはがせる状態に持ち込まなければならない。
 追いつめられたウィンディを眺めて好都合と感じることがあっても、それを非難するような筋合いはない。まったく、ない。
(彼女はハルモニアにとっての脅威のひとつだから)
 こんなに簡単に壊れてしまうようでは困るのだ。
 だって、そうでなければ、こうやって対処する必要もなくなってしまう。彼女には、最後まで自分の足ですっくと立っていてもらわないと。
 そうだ、そういうことだ。
 なんとかルックは納得する。
 彼女には最後まで相応しく戦ってもらわなければ。
 定めた視線の向こう側、ちょうど月下草の青白い花弁の上。ウィンディが作り出した門がある。
 滲み出す魔力で歪んで見えるそこへ、ルックは一歩を踏み出した。
 ……そこに見当違いな願望が含まれていることに彼は気がつかない。


 空間が歪み、現れた女性は僕を招く。
 差し伸べられた白い指先は、逆らわれることを知らぬ傲慢さを無言で告げていた。
 寝台に腰掛けていたテッドは最大限の抵抗を試みる。けれども、言葉にされていない命令でも、ブラックルーンを宿す身では受け付けないわけにはいかなかった。
 のろのろと、瞳に悔しさを滲ませた表情を浮かべた無表情で彼は立つ。
 指先に魅せられるように、一歩。また一歩と魔術師のもとに近づいた。
 女は動かない。金の髪をそよと揺らすこともなく、ただ待っている。
 やがて腕をわずかあげれば届くという距離になって、ようようと彼女は微笑んだ。毒を含んだ嘲笑だった。
「ようやくかい」
 遅い、と言いたいらしい。
 それに反応らしい反応を、テッドは返さなかった。彼女の顔を見ようともしない。目の前にまっすぐに視線を貫いている。
「まったく、かわいらしくない人形」
 ついとウィンディが指で彼の顎を持ち上げた。蒼い瞳が少年を刺す。
「まだ抵抗しようとするなんて」
 彼女が彼にブラックルーンを授けてから、かなりの時間が経った。もとが真の紋章の継承者であることを考慮しても、この精神力は見上げたものだ。
 まったく、忌々しい。
 本当であればウィンディがその場にいなくても彼女の思いのままに動かせるまでにしたかった。例えばクワンダ、例えばミルイヒ、例えば、バルバロッサ。
 テッドがブラックルーンの支配下にあることを知らないマクドールの坊やに対しては、彼女のいない場所のほうがより効果的だと考えていたからである。
 けれども、そこまで待つ余裕がなくなってしまった。
 クワンダとミルイヒは寝返り、テオは戦死。ロリマーを抑えさせていたネクロードは自滅した。
 カシム=ハジルは都市同盟への牽制を理由に帝都へと上ってこないため、ブラックルーンを授けることができずに不安材料だ。ソニア=シューレンはテオへの思慕をあおってやれば反乱軍に与することはないはずだが、予断は許されない。
 そんな昨晩、反乱軍に潜らせてあるサンチェスからルックが書簡を受け取ってきたのだ。
 同盟を求めて、軍主一行が竜洞へと出立。
 したためられた事実。
 今朝、慌ただしくルックに竜洞にある月下草の処分を命じて、その足でここへ来たのだ。
 急がなければいけない。
 テッドを見て、強く思う。
 反抗の残る瞳を従順へ。
 抵抗の残る手足を従属へ。
<ソウルイーター>の主を騙せる程度に仕込まなければいけない。それも、反乱軍の連中が竜洞と手を結ぶ前に、である。薬の有無にかかわらず、彼らが結託してしまう可能性も高いのだから。
「光栄に思いなさい。これから、へし折ってあげるわ」
 使い捨ての駒のくせに。
 この世界に未練たらしくしがみつかせていた、その精神を屈服させてやる。
 楽しげな宣言に応じて、くるりとふたりを光の輪が取り囲んだ。転移魔法。
 光芒のなか、テッドの瞳がしかめられる。抵抗か、あるいは単に眩しさへの条件反射か。
 どちらかを知らしめるように彼の腕がわずかに、ほんのわずかに動いた。ぎこちないそれが、机を擦り、大きく揺らす。
 反射で置かれていたポットが床へと滑った。
「あ」
 陶器が砕け散る音に、テッドを縛るウィンディの支配がわずか緩んだ。しかし、彼が発することのできたのはたった一音だけだった。
 術が発動する。
 溶けるようにふたりの姿が消え、何事もなかったかのように静寂だけが戻る。


「ただいま」
 帰還を告げた声は、空しく宙へと消えた。
 いつもは返ってくる声が、ない。
 どこかへ出かけているのだろうか。あまり深く考えもせずに歩き出したルックのブーツが、湿った音を立てた。
「?」
 不審に思って視線を下げれば、白と黒のコントラスト。こぼれた紅茶と、散らばった茶葉。そして陶器の欠片。
「なに、これ」
 セットになっていたカップも、ぎりぎりの位置で踏みとどまっているという風だ。反射的にそちらを安全圏に避難させると、ルックはそっと白の破片をつまみ上げた。
 マクドール家から持ち出した品であるのはわかった。手に入れてからは、ほぼ毎日これを使っていたのだし、部屋にあるティーポットはこれだけだったのだから間違いない。
 テッドが落として割ってしまったのだろうか。
 考えて、打ち消す。
 それはない。割ってしまうことはあるかもしれないが、彼が後片付けもせずに放置しておくはずがない。
 今朝から様子がどことなくおかしかったし、まさか逃げたのだろうか。否。それだったら、いつもとは明らかに違う状態は怪しんでくださいと言うものでやはりおかしい。
 これは、抵抗の跡?
 何者かがテッドをこの場から無理矢理に連れ去った?
 解放軍、と単語が閃く。帝国軍が間諜を放っているのと同じく、解放軍もっこちらへ手を伸ばしていることはサンチェスから情報として入手している。テッドの居場所については、地下牢にそれらしき影武者まで立てて隠しているのだ。ばれるとは思えないが、情報が漏洩する可能性はなきにしもあらず。
 知っているのはウィンディと、バルバロッサ。それから、テッドの占める位置の重大さを知っている数人の一般兵……。
 思い描きながら、部屋に残る魔力を探ったのは無意識だった。
 かつてハルモニアで何度も暗殺されかかったことから身に染み付いた習慣ともいえる。
 一見してそうは見えなかったが、この部屋も牢獄には違いない。周囲にはウィンディの結界が巡らされている。彼女の許しがなければ、基本的にこの部屋に踏み込むことはできない。
 だが、結界は荒らされた様子もなく、ひたすらに静かだった。無理矢理にこじ開けた風もない。そんな真似ができるのは、ウィンディ自身か星見の魔女だろう。
 拡大した意識に引っかかるのは、ウィンディ自身の魔力の残滓。
 彼女がこの部屋を訪れるのは毎日の習慣ではあるが、ここまで強い気配が残っていたことはない。
(ウィンディがテッドを連れて行った)
 事態は明白。
 理由など、説明されなくともわかっている。そもそもテッドはウィンディの便利な駒のひとつに過ぎないし、ルックも同様だ。彼女が自らの行動を断る筋合いは全くない。
 けれども、ルックの思考はそこまで回らなかった。
 彼の身柄を動かすならば、当然のように。自分に一言あってしかるべきだと。
 最初に思ったのがそれだった。
 何はともあれ、ウィンディに会わなければ。
 乱れた部屋はそのままに、ルックは踵を返す。


「ウィンディも酷なことを」
 玉座で皇帝は呟いた。
 今まで高い安定を保っていた気配がひとつ、乱れている。正体を見失うほどではないものの、腰に佩いた竜王剣が眷属を感じて震えていた。
 だが、自分には関係のないことだ。
 がらんとした玉座の間で皇帝は気怠げな溜め息を落とす。彼の周りには誰もいなかった。普通であれば側に控えているべき近衛兵も、官僚も、軍人も誰もいなかった。
 バルバロッサが特別にしたわけではない。
 いつのまにか、こういう状態が普通になっていた。
 沈む船からネズミは真っ先に逃げ出すという。
 それと同じことだろう。
 ここで彼が呼んで現れる人間は、赤月帝国と運命を共にしようという酔狂か、あるいは沈んでいることに気がつかない愚かなネズミ……否、人形だ。
「まったく、人形遊びもほどほどにすればいいものを」
 漏らした言葉に彼はうっすらと口元に笑みを刷いた。
 人形遊びとは何のこと。
 自らが支配した人間を盤上に配置するウィンディか。
 おそらく、否。
「それは私に言うべきことか」
 人形のフリをして時を過ごす自分にこそ相応しい台詞だ。
 声を大にした自嘲すら、孤独な皇帝には空しく響く。


<2005.11.23>


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