奏幻想滸伝
          臥竜天青2


 ルックの本の読み方というのは独特だ。否、彼の性格からは意外な様相だというのが正しい。
 きちんと調べた結果を系統立てて並べそうな印象がある。少なくとも、テッドはそう見ていた。
 だが、目の前に広がる光景はそれとは対照的だった。
 付箋がべたべたと貼られた本――ここまでは予想の範疇のうちだ――が無造作にその頁が開かれたままに机の周りから寝台のうえまでを占領しているのだ。 その開かれた向きもあっちへこっちへと一定ではない。
 テッドが寝転がっている空間は、かろうじて保たれているという程度。
 文句のひとつでもつけてやりたいところだったが、仕事に集中しているときの少年に声をかけても、百害あって一利なし。すでにテッドは学んでいる。
 そんな彼の目の前で、本が空を飛んだ。
 くるくるとゆるやかに、それはテッドの脇に着地する。きちんと栞を挟んだ頁を開いて。
 読書家とは思えない乱暴な扱いだ。 ルックの場合は、無意識のうちに風を操って本への負担を消しているからなんともいえないが、本がかわいそうだとかは思わないのだろうか。
 それとも所詮は仮宿のもの。意識が薄いのかもしれない。
「ああ、おれ、涙出そう……」
 親友・リン=マクドールを思い出して呟く。彼は小難しい本ばかり読んでいた影響か。 はたまたテオとグレミオのしつけの賜物か。出会った頃から、ひどくそういうものの扱いにはうるさかった。
「うるさい、黙れ、気が散る」
 そんなテッドに容赦のない三段活用。
 こちらに緑の瞳が向けられないのは、ルックの機嫌に『まだ』『それほどは』障っていない証拠だ。
 ただ、このままにしておけば彼の気分が悪化の一途をたどることは予想できている。
 何をしようとしているのだか理解できないが、朝から図書館の本を持ち込んで書物とにらめっこしているルックは、珍しいことにまだ目的を達していないようなのだ。 いつもならばこの手の仕事は一時間もあれば完璧にこなしている。
(あ、ちょっと腹立ったかも)
 自分の十分の一も生きていないお子様に負けた気がしてテッドも落ち込む。育てられた環境も個人としての資質も違うのだから、当然といえば当然なのだが。
 なんというか。
 自分に兄弟というのはないのだから、断言できないが。
 弟に負けた、という気分がしてならない。
 リンに対してはそんな感情は抱かなかったのに。彼に対しては……負けたくないという強い悔しさだった。
 自分から見て対して年齢も変わらない二人に対して、ここまで違ってしまうのはそれぞれの持つ性格のせいなのだろう。
(せめてテオさまとか、ライバル視したかったよなあ)
 真の紋章によって身体の成長を止められてしまうとはいえ、三百年も生きたのだから、それはもう精神的にはあの将軍くらいにはなりたかった。
 埒のない感傷に浸りかけ。
 頭をゆるく振って、それを追い払う。
 気分転換に茶でもいれよう。機嫌の傾きかけたルックのそれを直す意味でも。
 それがいい。
 本の群れを崩さないように立ち上がると、こっそりとテッドは部屋を抜け出した。
 通い慣れた足取りで厨房へと向かい。
 見事数分後には高級ハイランド産紅茶を入手していた。
 彼らの部屋にはカップが常備されている。しかも、普通の兵士などは手の出せない高級品である。 実はマクドール邸からテオの許可を経て、昨年の冬にいただいてきた物だったりした。
 それを使って茶を嗜むのが最近の彼らのお気に入りである。
 上機嫌で扉を開ける。
 視線を向けた先では、まだルックが前屈みに文字を追っていた。
 数十分と目を離していないはずなのに、すでにテッドが寝転んでいた場所はなくなっていた。
 と。
 本が空を飛ぶ。ゆるりと寝台に着地したそれにルックは目も向けず、ただかたりとペンを置いた。
 どうやら終わったらしい。
「お疲れさん」
「本当だよ。まったく」
 テッドの差し出したカップを自動的に受け取ると、それに口をつけかけて止める。まだ熱かったらしい。
「何を調べてたんだ?」
「ひとに聞く前に見れば?」
 それはそうだ。すべて頁が見える状態で放り出されているのだから。
 喉を鵜潤しつつ、茶をこぼさないようにテッドは文字を眺めた。いつもの紋章術の調べ物とは違うらしい。絵も認められる。細密画だ。
 その全部が。
「植物?」
 ひっくり返して本の題名を見れば。
 トラン地方植物図鑑。希少植物一覧。薬草学。竜と薬草。などなど。
「で、竜?」
「そう、竜。ウィンディさまが竜洞に仕掛けたから」
 淡々とルックは続けた。
 はっきりとウィンディから教えられたわけではないが、どうやら竜洞と赤月帝国の同盟は……ウィンディとの個人的な連携は、竜洞騎士団団長のヨシュアに断られた。
 だが、解放軍と竜洞とが手を結ぶのは。ウィンディにとってどうあっても避けなければならない。
 かといって竜洞をロッカクの里のように壊滅させるわけにはいかない。 ウィンディの持つ対ハルモニア構想の中でも、<竜>の紋章に加え、圧倒的な制空権を持つ竜洞騎士団は非常に魅力的なのだ。 また、ロッカクよりも竜洞は攻略には厄介でもある。
 今、生かすには危険。けれども、殺すなんてもってのほか。
 そういうわけでウィンディは薬を使って竜たちを眠らせたらしい。
「でも、薬で眠らせたってことは、やっぱり薬で起こせるんじゃないか?」
 テッドの指摘に、ルックも頷く。やっと飲める温度になったカップを口に運んで。
「そう。中和剤がある。神医とか言われるような医者には簡単に調合できるだろうね。……材料さえあれば」
 散らばった薬草学の書物から、ルックがいわんとしていることを察する。彼が調べていたのがその材料だ。
「じゃあ、あの女は材料をすべておさえてあるってことか?」
「全部考える必要はないんだよ。三つのうち、どれかひとつでも欠ければ、薬はできないんだから」
 まずは竜の肝。こればかりはウィンディにはどうにもならない。ただ、竜洞の人間が眠っているだけの竜を安易に殺すとは思えない。
 次に黒竜蘭。植生の関係から、赤月帝国にも竜洞にも自生していない。唯一の土と水とを調えた黄金皇帝の空中庭園にのみ花開く。 だから心配するほどではないかというと、そういうわけではない。赤月帝国よりも遥か南の国では、希少であるには違いないものの、手に入れることはできる。 そちらから手を回されれば、手の打ちようがない。
 最後のひとつが月下草。これは竜洞の東、シークの谷にしか育たない薬草だった。 城の書庫にあっためぼしい資料をあたったが、そこ以外で確認されたという記述はなかった。
 つまり、月下草さえ確実に取り込んでしまえば、竜を眠らせるも目覚めさせるも。生かすも殺すもウィンディの言葉ひとつということになる。
「それにしても、シークの谷だろ?あそこって、竜でないと行けない陸の孤島じゃなかったか?」
 それをどうやってウィンディが手に入れようとしているのかと質しかけ、テッドは言いながら問いが馬鹿げていたことに気がつく。
 あの女は真の紋章の継承者。
 それも、この世界だけでなく、伝承では百万あると言われている異世界へすらも道を開くことのできるという<門>の紋章を所持している。
 同一世界にある大陸にあるシークの谷へ行くことは、目をつぶってもできるだろう。
 ルックだって瞬きの紋章を宿している。一度訪れさえすれば、何度でも行くことができる。最初にウィンディに送り届けてもらって、あとは自力で移動できるのだ。
 彼らにとって足は問題にならない。
「で?おまえにウィンディはなんて?月下草を根絶やしにしてこいとでも?」
「バカ?」
 身を乗り出して声を潜めた本気は、少年の小馬鹿にした表情にたたき落とされる。
「絶滅させたら、取引材料にならないじゃないか」
 月下草は生の状態でなければ役に立たない。そのうえ、現在の技術では人の手で育てることはできない。
 つまり、必要な分だけを採った後に残りを処分してしまうわけにはいかず、ありのままの「使える状態」を竜洞側に示さなければならないのだ。
「使う区域だけの月下草を残して全滅させるのがいいのか……でも、それだと生態系に与える影響が」
 ぶつぶつとルックが作戦を練っている。テッドにはわからなかったが、今回の作戦は、かなりの裁量が少年に委ねられているらしい。
「根っこだけ残しとけば、どうにかなるんじゃねえの?」
「ウィンディさまがどのくらい長さでこの件を考えているのかがよくわからない」
 長期戦になれば、テッドの案は却下である。新しく芽が生えてきてしまうだろう。
 ……そんな重要な点ですら、ルックをして尋ねるのをはばかられる雰囲気だったようだ。
「でも、あんまり紋章でばばーんとやらかしたくないんだろ?」
「そこまで派手にやるとどうしても魔力の痕跡が残るだろう」
「そんなことに神経質になる必要があるのか?」
 いちおう秘密裏、であるかもしれないが。ルックはすでに一年以上赤月帝国にとどまって活動している。痕跡もなにもあったものではないだろう。
 テッドの言わんとしていることは伝わっているのだろう。
 細い肩を軽くすくめると、ルックははらりと落ちた髪をかきあげた。
「なんとなく」
「は?」
「なんとなく、ササライがそろそろ出てきそうな気がするから」
 実際に顔を合わせたことがないが、原型が原型なだけに魔力は似通っているはず。自分の存在を知らない彼でも、そんな稀なものに反応しないはずがない。
 魔女レックナートがどれほどの知識と技を兄に授けたのかはわからない。 しかし、そこらにまき散らされた同質で異質な気配に気がつけないようでは、はっきりいって軽蔑に値する。
 同じことは、ササライだけではない。
 一流の魔術師であるウィンディにも言える。
 幸いというべきか。今まで、彼女とササライの接触はなかった。だから、ルックも最低限の用心をすればいいだけだった。
 それが、現在は。反乱軍の勢いは甚だしく、帝国軍の勢いは甚だしい。後方に控えいていたウィンディが前線に立つ機会も増えるだろう。
 あの女のことである。顔を見ずとも、魔力だけでふたりの関係に感づく。連鎖してハルモニアとの関連も。
 まだ、ルックのなすべきことは終わっていない。否、ひとつたりとも成し遂げていない。
 最後まで目的を達するには、細心の注意を重ねても重ね足りない。
 ひそりと鋭さを含んだ声。
「まあ、やる気満々」
 にやりとテッドが頬をあげた。
「当然だろ」
「途中放棄なんて、みっともなくてカッコ悪い真似はするなよな〜」
 誰がと言葉にするかわり、風の魔力を漂わせてやる。脅しを越えているほどの強さ。
 だが。テッドは今までのように慌てて弁解するでもなく、満面に完璧に作り上げた笑顔を向けてくるでもなかった。
 不審に思ったルックがわずか眉をひそめた。
 目の前の姿だけの少年は、相変わらずの静かな表情。
 違和感を感じながらも、原因が掴めない。たとえ、自分が聞いたところで彼は教えてはくれないだろう。そう考えて、ルックは眉間の皺をそのままに魔力を解いた。
「しないよ、そんなこと」
 投げ出すなんて許されていない。最初から、選択肢にすらない。
 テッドは答えなかった。
「じゃあ、おれはお前が前に進みやすいようにササライくんが出てこないことを祈ってるよ」
「それはどうも」
 どうやら、予想通りだ。はぐらかされた。テッドからは何も聞き出せそうにない。
 なんだかもやもやしたそれが胸のあたりにわだかまっていて気持ち悪かった。ふたりで部屋にいれば、空気が軋むことは間違いないだろう。
 カップの残りを飲み干すと、ルックは立ち上がった。傷めないように注意して本をまとめる。
 資料探しは終わったことだし、図書館に行って戻ってくれば、少しはこの妙な雰囲気もどうにかなっていることだろう。
 扉を風で開きながら、背のむこうに向かって声をかける。
「なにか、借りてくるものは?」
 いつの間にか習慣になってしまったそれ。
「……いや、ないよ」
 あっさりとした言葉に続いて、茶器を片付ける小さな音が耳にひっかかった。
「あんた、このごろ、本を読まなくなったよね」
 以前は、あんなにルックに強請っていたのに。
「ああ、調べてたことはわかったから」
 だからもう必要ないんだ。
 続けられた言葉は閉まる扉の音にかき消されて届くことはなかった。


<2005.11.20>


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