臥竜天青1 |
願わくば、友が。 目を逸らさないことを。 逃げ出さないことを。 立ち止まらないことを。 歩み続けることを。 この目で確かめることはできないけれども。 切に願う。 「さて、どうするか解答を聞かせていただこうかしら?」 ウィンディはゆったりと腕を組むと、椅子に腰掛けた男を威圧的に見下ろした。 竜洞騎士団長の執務室。中央よりもやや奥の机についているのは、言うまでもなくこの部屋の主ムム竜洞騎士団長、ヨシュアであった。 両手を組んだ上に顔を乗せ、彼はその姿勢のままで応えた。 「今一度繰り返そう。断る」 迷いのない音だった。ウィンディの提案は、検討にすら値しないとの想いが感じとれる。そして、それは事実。 竜洞騎士団の大事だというのに、ヨシュアはこの一件を副団長のミリアにも伝えることすらしていなかった。 「スカーレティシア地方に展開する解放軍を我ら竜洞と、そちらで挟撃する?夢物語もたいがいにするとよろしい」 冷徹な声で断じる。 ヨシュアからしてみれば明白な事実であった。 一言でスカーレティシア地方といっても、東はリコンから西はスカーレティシアの奥、竜洞との境界となる山脈までと広大なのだ。 さらに解放軍はスカーレティシアと隣接するパンヌ=ヤクタ地方とロリマー地方、トラン湖のほぼ全域を手中に収めている。 単純計算であっても、帝国軍と竜洞騎士団が手を組んだとしても人手がまったく足りない。 また、士気の高さという点から考えても、解放軍の勢いを止めることなどできないだろう。 それだけではない。 竜洞騎士団と赤月帝国は主従関係にあるのではない。あくまでも同盟関係なのだ。頭ごなしに「従え」と命ぜられても、そうする筋合いはない。 騎士団団長であるヨシュアにしてみれば、竜洞にとって利益のまったくない争いに参加する肚など毛頭なかった。 「そうかしら?」 男の考えを読み、女は続けた。 これ見よがしに右手を掲げる。冷たい光が、そこから零れ落ちた。 「私の<門>、陛下の<覇王>、ユーバーの<八房>、そして貴男の<竜>。これだけ揃えれば、不可能に見える戦なんていくらでもひっくり返せるのではなくて?」 「わたしは、人の戦に紋章を持ち込むつもりはない」 「その紋章のおかげで成り立っている戦闘集団が何を言うのかしら」 紋章のちからでこの世界に存在できる竜を戦力として用いている時点で、ヨシュアの主張は矛盾している。 ウィンディの指摘を彼は沈黙で迎えた。 否定するでも肯定するでもない態度に、ウィンディの苛立ちが高まる。 掲げたままであった真の紋章からの光はまるで脅しをかけるように激しくなる。部屋を照らし、男女の影を壁へと刻む。 「私の役目は竜洞騎士団を……竜と生きる生活を守ることにある」 やがて。 ヨシュアが静かにウィンディを見つめた。女の目の奥に見える執念とは別の強い意志が、ある。 「今の帝国とでは、それを守ることはできない」 「勝てばいいのよ。そうすれば、貴男たち竜洞騎士団がこんな僻地に隠れ住む必要もなくなるでしょう」 人間がいたずらに竜を怖れるが故に、彼らは外界とは隔絶した生活を営むようになった。 それは、赤月帝国との親交を結んでいる現在でも変わっていない。 「貴男たちは認められるべきなのよ?」 「断る」 再び、ヨシュアは言葉にした。<竜>の紋章の継承者であるからこそ、彼は知っていた。 ウィンディのこと、その義妹であるレックナートのこと、<門>の紋章を襲った過去のことを。 その彼女が赤月帝国宮廷魔術師という。否。実質にはそれ以上の地位について何を成し遂げようとしているのか。 推測できないわけがない。……竜洞騎士団がどのような役目を期待されているのかも。 現在、竜洞とハルモニアのあいだには何の問題もない。赤月帝国とハルモニアのあいだにだって現在は何もないのだ。 そこに。 ウィンディの望むままに戦渦を呼び込むなど。彼の騎士団が、竜たちがその筆頭になるなど。 許容できるものではなかった。 ヨシュアの堅さを悟ったのだろう。 すいとウィンディが手を下ろした。光が徐々に退いていく。 だが、男を見下ろす視線からは脅迫めいた色が消えてはいなかった。 「そう。では、予告通りこうしましょうか」 右手が空間を切り裂く。何もなかったそこを掴むと、彼女の手には紫のガラス瓶が握られていた。 何がそこに収められているのかはわからないが、ヨシュアがそれを目にするのはこれで二度目だ。 ウィンディは三日前に現れると、今日と同じ言葉を紡いだ。そして返答に三日の猶予を与えて姿を消したのだ。 その際、最後に同じガラス瓶を同じように取り出して彼を脅した。 しかし、ヨシュアの態度は覆らない。 ……彼には、確信があった。 瓶の中身がなんであるかなど、まるで見当がつかない。ただ、竜と竜騎士の生命を脅かすものでないことは明らか。 ウィンディは戦力としての竜洞を望んでいるのだ。こちらの首を縦に振らせるためだけに徒に戦力を殺すことはない。そんなことをしても、どちらの得にもなりはしない。 目の前の女をヨシュアは気づかれぬように観る。 彼女が亡きクラウディアに似た美貌と。真の紋章に支えられた強大な魔力だけで現在の地位にまで上り詰めたとは考えていない。 それほど赤月帝国は甘くない。間違いなく、ウィンディは機略に富んだ人物であるはずだった。 それが、このような。こちらの感情を逆なでする策を採る。愚策ともいえる代物を。 彼女は追いつめられている。 目先の現実しか認識できなくなっている。 一方で、彼女は安全だと信じられる。 彼女の現実は竜洞の利益に負に働くことはない。 動じた様子のないヨシュアに、ウィンディの瓶を掴んでいた手が動いた。 淡い光に包まれて、彼女が微笑んだ。ぞっとするように冷たく美しく。 「後悔するが良いさ」 仮面を捨て去った、女の声。上品な口調よりもよほど似合っていた。 「後悔などするつもりはない」 「言っておいで」 次の瞬間、男は執務室に独り取り残された。 さあ、どうするべきか。 一拍の思考で、彼は部下を呼ぶと。 竜洞の見回りを命じた。 どういうつもりだ。 思い通りにならない展開に、ウィンディはくちびるを噛むと崖の下を見下ろした。 幾重にも連なった竜洞の内部。柔らかな下草に竜たちが思い思いの姿勢でくつろいでいるのがわかった。 兵器の群れだ。 ウィンディは感慨もなく思った。 ヨシュアがどれほど主張しても、竜など戦闘に使ってやらねば意味がない。愛玩動物とは違うのだ。 そもそも、あれらは人間に使役されるために紋章に繋ぎ止められている存在ではないか。 本来の用途で使ってやろうとして、どこが悪い。 彼らとしても、飼い殺しにされるよりはよほど本望だろう。 握りしめた小瓶を見る。 ゆっくりと蓋を外すと、かしゃりと澄んだ音が響く。 音に反応して、何頭かの竜が彼女の方へと首を巡らせた。なかには警戒をあらわにしているものもある。 「これも、あの男がいけないのよ」 呟くと、懐から紋章札を取り出した。赤月帝国ではほとんど出回っていない代物だが、各地を放浪するあいだに手に入れてとっておいたのだ。 こんなところで役に立つとは思ってもいなかったが。 「切り裂け」 発動の言葉とともに、爆発的な風が札を起点として流れる。術者であるウィンディを傷つけることはなかったが、そのドレスは大きくはためき。 彼女が標的とした瓶があっけなく砕け散る。 陽を受けて、きらきらと紫の破片が降り注ぐ。 竜たちに向かって。 空気の変化を敏感に感じとった竜たちは残らずウィンディの方を見上げていた。 が。 くたりとその長い首が揺れた。瞼がとろりと落とされる。 「お休みなさい」 紅色のくちびるからこぼれる言葉通り。 とさりと一頭の竜が地に臥した。 それを合図として、次々と。 彼女の下、見張りに立っていたであろう竜騎士が慌てて竜に駆け寄るのが見える。 しかし。 もう遅い。 彼かが揺すろうが叩こうが、竜たちをそんな通常の方法で起こすことなどできない。 (後悔するが良いさ) 先ほど、<竜>の継承者に対して投げた言葉を。今度は彼の部下たちに投げる。あのような長を戴いた不運を後悔するが良い。 足元から上ってくる喧噪に心地よく瞳を細める。 こうすれば、遅かれ早かれグレッグミンスターに駐留している連絡係の竜騎士のもとに連絡が行くだろう。竜洞に異変あり。宮廷魔術師の助力を請う。そんな文書を携えて。 もっとも、竜たちが眠りについたのは魔術的なものではない。単純に薬を用いたからだ。 中和剤さえ投与すれば目覚めさせられる。心得ある薬師や医師がいれば、誰にでも可能だ。 忌々しい反乱軍に身を置くリュウカンにだって。 けれども、その薬を調合するための材料の一つは。 グレッグミンスターは黄金皇帝の空中庭園にしか存在しないのだ。 (だから私の勝ち) どうやったって、あの男が負けるしかない。竜を取り戻すためには。 こみ上げてくる笑いを抑えながら、彼女は霧のようにその場から消えた。 <2005.11.20>
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