奏幻想滸伝
          雨往左往2


「くっ……」
 部屋は酷い有り様だった。花瓶はなぎ倒されて、花は床に散っている。床を豪華に彩っていた絨毯は焦げた臭いを放っていた。
 獲物を目の前にしながら逃がした悔しさに、ウィンディは顔を歪めた。
 最初、話を聞いた時には信じられなかった。カナンとかいう男が見間違えたのではないかと思ったのだ。 紋章に詳しくない一般人は、少しでも強大な力がふるわれると誤解しがちだ。 修練を積んだ者が五行や、あるいは闇の紋章などを変則的に使ったのを勘違いしたのかもしれない。
 だが、話を聞いていて引っかかった。
 話題の人間がほんの少年だということだ。紋章の力を使うまでは、弓を使っていたという。……もし、魔術師であればそのようなことはしないだろう。
 三百年前の記憶。逃がしたのはたしか子供だった。ほんの子供。聞く限りでは年齢が合わないが、会ってみるだけの価値はあるかもしれない。 外れならば、そのまま帰せばいいのだし、見どころがあれば魔法兵団に入れてもいい。
 軽い気持ちで返事をし、連れてこられた少年。
 自然と。顔が、ほころんだ。
「久しぶりねえ、かわいい少年よ。三百年前より、ちょっと歳をとったかい?それでもほとんど変わっていないね」
 優しい声が出た。
 子供は成長していた。けれども、それは些細な問題だった。
 無意識だろうが、一歩退いたその足が。
 雄弁に彼の正体を物語る。
 青ざめた顔から、叫びが放たれる。
「おまえは!あのときの、女魔法使い!」
 なんて素直な反応。それでよく、この自分の手を三百年もすり抜けてこられたものだとウィンディは感心してしまう。
「おや、覚えていてくれたのかい?うれしいね。もちろん私はおまえのことを忘れたことなどなかったけれど」
 ゆっくりと手を差し出す。
「さあ、その右手の紋章、今度こそ渡してもらうよ」
 さらに一歩、少年が下がる。
「冗談言うな!こいつは、おまえにだけは渡さない!おまえに渡すぐらいなら」
 もう一歩。女は手を伸べたまま、進み。少年はじりりと退く。だが、そう広い部屋ではない。すぐ後ろは壁だった。
 ウィンディは勝利を確信していた。
 ここは彼女の奥津城。少年は袋のネズミ。決して逃げられはしない。
 その余裕が崩れたのは、急速に彼に収束する力を感じ取ったからだ。
 欠片も気配を感じさせなかった闇が膨れ上がる。背中を嫌な汗がすべった。
 ソウルイーター!
「何をするつもりなの?!」
 問いには沈黙。
 どこまでも静かな表情をしながらテッドが右手を掲げる。
「呪いの紋章、真の紋章、<ソウルイーター>よ、その力を示し……」
 凶悪な紋章の気配にウィンディは無駄と知りつつも叫ぶ。
「バカなことはおやめなさい。こんな所で力を使ったら、自分もただではすまないわよ!」
 少年の右手の紋章が光った。放たれる光は禍々しい紅。
 身体に圧力がかかる。引きずられる。
 とっさに自らの持つ<門>の紋章に力を込める。不完全とはいえ、こちらも真の紋章だ。防げないはずがない。
 それでも必死に制御する彼女の向こう、闇の向こうから少年の声が聞こえた。気がした。
 だが、告げられた言葉が彼女の耳に届くことはなかった。



 闇がおさまった時、すでに少年の姿はなかった。
 部屋にあるのは彼女の他は、傷だらけで呻いているカナンとクレイズである。もっとも、クレイズはちょうど攻撃の影にいたらしい。 腰が抜けて動けないだけのようだ。
「どうなさいました、ウィンディ様!」
 物音を聞きつけて、兵士たちが駆けつけてくる。そして、例外なく部屋の惨状を見て唖然とする。
 木偶のようなその反応に、彼女はいらだちを踵で表した。大理石の床を打つ音は存外によく響く。
「わたしは無事よ。けれども……」
 視線を落とす。正確には、這いつくばっている男ふたりにだ。まったく、なんて使えないやつらなんだろう。
「賊が、近衛隊の隊員を傷つけて……」
 女性らしく顔をそらすと兵士たちは簡単に誤解した。
「なんと!こんな城の中にまで賊が!」
「許せん、ただちに兵を出せ!ウィンディ様、賊の特徴は?」
「茶色の髪の少年よ。青い服を着ていて、そうそう、マクドール家がどうとか言いながら入ってきて……」
 挙げられた家名に例外なく兵士がぎょっとした。それもそうだろう。由緒正しき帝国貴族だ。
「まさか、テオ将軍が……?」
 そろそろと怯えを出す兵士に、やっと衝撃から立ち直ったクレイズが唾を飛ばした。
「なんでもいい!とにかくあのガキを捕まえるんだ!」
「は、はいいっ!!」
 一律に敬礼すると、近衛兵たちがよたよたと走り出した上官の後を追った。
 いまだにひっくり返っているカナンを冷たい目で眺め、ウィンディはドレスの裾を翻した。この部屋に用はない。
「ふふ、頼もしいじゃないか」
 すでに自分を取り戻した顔で彼女は計算する。
 捨て身の攻撃は少年自身をも傷つけたはず。そう遠くへは動けまい。
 マクドールの屋敷に戻るかどうかは五分五分だ。マクドールの家にはかなり世話になっているらしい。 屋敷の住人に迷惑をかけないように逃げ続けるか、唯一の逃げ場として駆け込むか。
「どちらにしろ、確実性が欲しいね」
 呟いて、自室へと歩き出した。途中、すれ違った兵士に伝言を頼む。
 彼女の手足を動かすために。
「魔法兵を」



 容赦なく解放された真の紋章の力は、当事者たちの集っていた部屋に物理的な被害をもたらしただけではすまなかった。
 それはほんの数十秒のことであったが、滲み出した強い死の気配は、魔力に優れ、あるいは敏感なものに確実に影響を与えた。
 その最たるものが魔法兵である。
 今や完全にウィンディの指揮下に置かれている帝国魔法兵団は、城内に待機部屋を与えられていた。 彼らが<生と死>の余波を受けないはずがなかった。
 もっとも、同じ魔法兵とはいっても個々の魔力や特性に差がある。気分が悪くなる者も続出した一方で、平然としている者もいる。 そのほとんどが通り過ぎた凶悪な魔力から身を守る術を持っていたわけではなく、単純に感受性が鈍いだけであった。
 ただひとりを除いて。
 今にも死にそうな顔をさらしながら部屋を出ていく人間と何が起こったかわからずにおろおろする人間を見ながら、少年は平然と読書を続けていた。
 彼にとっては気にすることではない。むしろ気になるのは、さきほど駆け抜けていった力の正体だ。
(真の紋章)
 自らの一部を為すが故に、気配だけでわかった。しかも、それは魔術師ウィンディが持っている<門>でもなければ、皇帝が所持する<覇王>でもない。 今は完全に気配を絶ってしまっているから断言はできないが、あれは<生と死>ではないかと思う。 ウィンディがハルモニアに対抗するためにしつこく探していたと聞いている。可能性は高いだろう。
(どうするか)
 文字を追いながら思考を追う。頁をめくる。
 あの女のことだ。ようやく見つけだした<生と死>をそう簡単に諦めるとは思えない。
 そして自分が、この国にいる目的。
 そろそろ『実績』は積んできた。
 この機に乗じるのが得策に思える。
「潮時、か」
 呟きながら本を閉じた。大気の流れが少年に来訪者を告げる。おそらくウィンディから命を拝した者だ。
 ノックも慌ただしく扉が開けられた。少年を除く全員が、その音に驚いて駆け込んできた兵士に注目した。
「魔法兵団に告ぐ!ウィンディ様からのご命令だ」
 大きく息を吸い、高らかに響く。
「城に侵入した少年がウィンディ様並びに帝国近衛兵に紋章で攻撃を加えた。ただちに城下にて探索を開始するように!」
 周囲がざわめく。
 少年は、独り静かに口元に冷たい笑みを浮かべる。侵入した?一国の城に?バカバカしい。 それほどまでに城の警備が杜撰なわけがあるまい。
「出動せよ!」
 託宣のように伝令が告げると。行き先も定まらないまま、ほぼ全員が駆け出した。 ウィンディの命にはどんな理不尽と思えるものでも従わなければいけない。 彼らは骨身にしみて知っていた。
 最後に、かたりと少年が席を立った。
「おい、おまえ!なにをぐずぐずしている!さっさと行かないか!」
「わかってるよ」
 面倒くさそうに、朽ち葉色の髪をかきあげる。うんざりと書き込みたくなる緑の視線が兵を刺した。
「ここまで見事に気配を消しているんだ。焦って雨の中を走り回るなんて、無駄の極みだよ」
「何を!」
 いきりたつ兵士を尻目に、少年はすたすたと扉へ向かう。そんなにぎゃあぎゃあと喚かれなくても自分の役割は果たすつもりだ。あくまで目的のために。
「貴様、名前はなんというのだ!」
 必ずやウィンディへと報告してやるとの暗い決意も露。
 ちらりと後ろを振り返り。男を小馬鹿にした表情を浮かべながら、少年は名乗った。
「ルック」


***


 再び気を失った親友の額に乗せた布を取り替える。発熱は雨のせいか、怪我のせいか。おそらくは両方だろう。
 薬を買うと言って屋敷を出たパーンはまだ戻らない。時間が時間だし、この雨だ。仕方がない。
「雨、止みませんね」
 手ぬぐいを絞りながら、グレミオが呟く。
 重苦しく、窓を叩く音。暗闇は陰鬱に迫ってくる。
「嫌な雨だな。寒気がする」
「そうですね」
 クレオが窓の外に目を凝らしながら言った。パーンの姿を待っているのだろう。
 早く帰ってこないだろうか。
 気のいい家人の姿を思い浮かべながら、リンは自分の腕をつかんだ。無力だ。唯一の親友がうなされていても何もできない。 パーンのように薬を求めに街に出ることすら、将軍家嫡男という立場が許さない。
 何があった?テッド。
 近衛兵なんかに追われて。
 おまえは、ウィンディに何をした?
 皇帝と初めて謁見した時、彼の傍に控えていた女魔術師。美貌の下から、粘り着くような視線を感じた。あの女、この自分を値踏みしたのだ。
 自分の回りには自分にとって役に立つ者しか置かない。あれは典型的にそういう女だ。
 その女がテッドの何を求めたというのだろう?
 テッドの語った<ソウルイーター>。どこかで聞いたことのある単語だ。
 一度聞いたり読んだりしたことなら立場柄忘れることはまずない。 その自分がこんなに思い出すのに手間取っているのは、それほど目の前の事態に揺さぶられているということなのだろう。
 ううん、とくぐもった声が親友のくちびるから零れる。
「テッド!」
 ベッドの脇にすがりついたリンを押しとどめながら、クレオが安心したように微笑んだ。
「気がついたみたいだね」
「リン……」
 ゆっくりと名前を紡がれる。
 声は弱々しかったが、瞳はしっかりしていた。
「ああ、テッド」
 その様子に密やかに安堵しながら呼びかけた。
 視線が絡む。そこにリンはなぜだか迷いを見た気がした。
 何度か、テッドの口が開閉する。だが、言葉は放たれず、空気だけがいたずらに宙をかき乱した。
 布団の上に投げ出されていたテッドの右手が強く握られる。雨にぐっしょりと濡れた手袋はそのままになっていた。 かつて彼がマクドール家に来た当時、そこには酷い火傷があると言っていたからだ。
『何があっても見ないでくれよ。一生のお願いだからさ』
 ひらひらと手を振りながら、テッドは笑っていた。
 あのときは無邪気に信じたけれど。
 さきほどの話を聞いて理解した。
 右手の紋章。
 おそらく、そこに元凶がある。
 テッドが視線をそらして目を伏せた。
 そして次に目の合った瞬間。
 瞳にあった迷いは消え。
 代わって、言葉が放たれる。


<2004.11.15>


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