雨往左往1 |
出かかった言葉をあのとき飲み込まなければ。 話などいつでもできると思わなければ。 『いつか』伝えられればいいと考えなければ。 状況は好転していただろうか。 がんがんと痛む頭で思考したが、いくら考えても答は『否』だ。 たとえ事前にこの呪われた紋章のことを告げていたとしても。 自分がリンから離れようとしなかった限り、リンが自分を親友として共にいた限り、現在の状況は避けられなかったはずだ。 崩れ落ちそうになる膝を叱咤しながら、テッドは自分に唯一残された『家』へと向かう。 彼を押しつぶすように気温が下がる。 彼を責め立てるように雨が落下する。 ウィンディの鼻先で放った紋章の力は、宿主のテッドにさえも跳ね返ってきている。それにあの女だって真の紋章の継承者だ。 捨て身の攻撃さえも、どの程度の時間稼ぎになることか。 前へ前へ。ひたすらに。 それすらも自分を追いつめるとわかっていながらも、そうすることしかできない。 この道は、かつての自分から続く道。 倒れながら扉を開く。 そして、いつかの彼に続く道だ。 *** ひとり分の食事が、忘れ去られたようにテーブルに存在していた。焼き立てだったパンは固くなっている。 すぐに温かい物が食べられるようにとの配慮から、シチュー皿は空のままだった。 雨の音が響く。 「遅いですね、テッド君。用が済んだら、すぐ来るって言っていたのに。シチューが冷めてしまいますね」 グレミオが不安げに呟いた。 「この雨だ。もしかするとどこかで雨宿りでもしているのかもしれないな」 宥めるようにリンが言った。 しかし、言いながらもまったく信じてはいなかった。マクドール家は筆頭将軍家だけあって、城から非常に近い位置に屋敷を賜っているのだから。 テッドの性格ならば、土砂降りの雨だっておかまいなしに駆けてくるだろう。 思考が空回っている。 どうしてカナンはテッドを連れていったのだろう?だいたい、あの男はテッドを薄汚い子供だとしか見ていなかったはずだ。 マクドール家嫡男である自分にすら色目を使わないほどに頭の回転も悪かった。 記憶を辿ると、清風山でモンスターを吹き飛ばしたあたりだろうか。 テッドは絶体絶命のあの場面で、紋章を使った。 何の紋章かはわからない。しかし、とにかく圧倒的な力だった。テッドはいつも弓矢で攻撃をしていたから、隣で戦っていても自分は気がつかなかった。 あれほどの魔力を持っていようとは。 「雨、よく降るねぇ」 クレオの声がするりと耳に入る。 まだ、テッドは城にいるのだろうか。どんな話をしているのだろう。もしかするとあの魔力に目をつけられて、魔法兵団に誘われているのかもしれない。 まとまらない考えを割るように、がたんという何かが倒れる音が響いた。 「なんだ?」 全員の視線がいっせいにドアに注目している。空耳ではない。 「泥棒か?」 「まさか。ここがマクドールの屋敷だと知っているなら、こんな物音をたてるわけがないだろう、パーン」 「いいよ、俺が見てくる」 かたりと席を立つと、慌てたようにグレミオが追ってくる。 「坊ちゃん!なにも坊ちゃんがそんなことをしなくても……」 背中に声を受けながら慎重に階段を下りる。本当に賊が侵入したのならば、留守を預かる自分が責任を持って対処しなければならない。 意識して足音を殺す。 玄関が徐々に視界に現れる。 床に、何かが倒れている。先ほどの音はこれか。だが、玄関にそんな倒れるような物が飾ってあっただろうか? 疑問に思いながら目を凝らす。 ちょうど人間くらいの大きさだ。否。 『くらい』ではない。人間だ。 認識した途端に、視界が冴えた。ぐっしょりと濡れた、青い。あれは。 「テッド!」 「テッド君!」 追いついてきたグレミオの声とリンの声がかぶる。半ば、悲鳴。クレオとパーンの慌ただしい足音が床を打った。 倒れ臥す少年の身体をパーンが抱き上げる。 「テッド君!どうした、大丈夫か?」 「すごい血だ」 クレオが傍らに膝をつく。 テッドは全身が傷だらけだった。それを確かめながら、彼女はいぶかしむ。 「それに、この傷口は普通のものじゃない。魔法か?」 魔法?紋章魔法によって傷つけられたというのか。しかし、一体どうして。 あまりのことに凍りついたように動けない。 グレミオが顔を上げる。 「何をしているんですか。まずは中に運ばないと。坊ちゃん、手を貸してください」 「わかった」 そうだ。呆然としている場合ではない。この怪我だ。 「わたしがこちらを持ちます。坊ちゃんは反対側の肩を」 「ああ」 肩に腕を差し入れて、合図で抱き上げる。足を引きずらないようにクレオが支えて、なんとかテッドをベッドに寝かせることに成功した。 「パーン、タオルを。グレミオはできるだけ湯を沸かしてくれ」 傷口を清潔にしなければいけない。言葉では冷静に指示を出しながらも、リンのこころはぐちゃぐちゃだった。 なぜ、と。疑問符しか浮かんでこない。 ぼろぼろになった服を脱がせて、清潔なものに変える。クレオがわからないと言葉を零す。 「いったい、何が……」 四方八方から無惨に斬りつけられたような痕。それは紋章魔法に特有のものだ。 自分もかなりの使い手であるせいもあって、クレオにはそのひとつひとつの尋常でない威力がわかる。 「……城から戻る道で強盗にでも襲われた、そんなところか?それにしては、魔法の傷跡、というのはおかしいな」 彼女の自問自答にリンも頷く。 商人や貴族を標的とする大きな盗賊団なら魔術師を抱え込んでいる場合もあるが、テッドのような少年ひとりを襲うようなことはないはずだった。 パーンが持ってきた濡れタオルで血と泥のこびりついたテッドの顔を拭う。 「おっ。目を覚ましたぞ」 小さく呻き声を上げながら、テッドの瞳が天井を映した。ぼんやりと彷徨った視線が、リンのうえで焦点を結ぶ。 「リン……ここは?」 「俺の家だよ」 戸惑ったような表情に、リンは安心させるように微笑んだ。そうすることで自分も安心した。 「あいつらは……?近衛隊の……やつらは、まだ、来てないのか?」 近衛隊? 挙げられた単語に戸惑いながらも、ゆっくりと頷く。 それを見つめながら、テッドはゆっくりと目を閉じた。まるで、なにかを観念するかのように。 そして、次に瞼を上げた時。 ひどくゆっくりと。力強く。まっすぐにこちらを見据えながら。 テッドは痛いほどに親友の姿を貫く。 かすれた弱々しい声。だが、しっかりとした口調。 「助けてくれ、リン」 本当ならこの台詞を言いたくなかった。 親友だから。親友だと思ったから。 この言葉を使う前に彼の前から去るつもりだった。 紋章のことだけを告げて、「だからおまえとはもう一緒にいられないんだ」と。 笑顔だけを残して、唯一の友の前から消える予定だったのに。 「大丈夫ですよ。安心してください。落ち着いたら慌てずに、何があったか教えてくれますか?」 柔らかい表情を浮かべながら、グレミオがテッドを覗き込んだ。風邪をひかないようにとの配慮か、湯たんぽを布団の下に入れる。 「グ、グレミオさん……。――実は……」 <2004.11.15>
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