奏幻想滸伝
          暗中模策4


 どうしてこうなったのだろう。
 落ち着かない溜め息をルックはテーブルクロスのうえに落とした。繊細なレースで編まれ、いかにも女性が好みそうなそれは、彼の趣味では全くなく。 無理矢理に座らされている暗鬱さに拍車をかけてくれる。
 紅茶から立ち上る湯気は、ほのかに甘い香りを漂わせている。ファレナから輸入される高級品だ。味覚は失いつつあるが嗅覚は生きている。 記憶をたどって、かつて味わったまろやかさを再現できる。
「お気に召さないかな?」
「……そんなことはありません」
 目の前の男が豊かな声で問いかけた。
 五十を過ぎたとは思えない黒々とした髪、張りのある肌、たくましい体躯。
 黄金皇帝バルバロッサ。
「それはよかった」
 よいのだろうか。……彼にとってはいいのかもしれない。
 でも。
 はあ。
 ルックは再び溜め息をついた。今度は極力、密やかに。
 どうして、うららかな秋の日差しの差し込むテラスで皇帝とふたりきり、優雅なティータイムを過ごしているのだろう。
 こんなことになった経緯をひっくり返す。
 ウィンディに幻術をかけられた後、ルックは彼女が普段とっている行動をなぞろうと思った。魔法兵団に顔を出し、情報部に顔を出し。
 が、ここで歩き回るのが嫌になった。
 いくら周囲の目には『ウィンディ』として映るとしても、ルックが自分のからだを見下ろすときには、そのままの姿にしか見えないのだ。 頭で理解していても、なんともいえずに精神が張る。
 最初に考えていた彼女の研究室。けれども、自分の理性に問いかけて止めた。あれほど魅力的な素材の溢れた場所でじっとしていられるわけがない。 ウィンディを不機嫌にさせる行動をとってしまう自分を、ルックは簡単に想像できた。
 それで他に独りになれる場所を探したのだ。
 図書館、というのが彼の好みに一番合ったのだが、危険な場所の筆頭である。なにせルックに本を探してくるように頼んだくらいなのだ。 彼女の不在をいいことにテッドが繰り出している可能性が高い。テッドにだけはこんな姿――ウィンディそのままであるが――を見られたくはない。
 そうやって次々と消去法で選んでいき、最後に残ったのがこのテラスだった。
 皇族の私的な場所であり、一般兵おろか近衛兵も許可があるまで立ち入ることができない。皇帝はこの時間は政務についているからいないはず。完全に独りきりになれる。
 そう考えたのだが。
 ここに腰を落ち着けて十数分。
 淡くも予想は崩れ去った。
 目の前に現れたの皇帝バルバロッサ。しかも皇帝自らが紅茶の乗ったワゴンを押して来たのである。
 なかば呆然としているあいだに、さっさと舞台が整えられてしまい。
 そして今に至るのである。
 こんな状況を考えることすら避けていたルックである。いったい何を話せばいいのか。無言のままに紅茶ばかりが減っていく。
 黙々と飲み物をすする少年に、バルバロッサがふっと微笑んだ。
「どうやら、身体に大事ないようだな」
「は?」
 突然の言葉にルックは思わず視線をあげた。まじまじと男を見つめれば、変わらぬ笑顔で応えられる。
「去年の秋の終わり頃か、血相を変えて元継承者があれの研究室に駆け込んで来てな」
 あれというのはウィンディのことだろう。それにしてもいったい何の話なのか。
「あまり必死なものだったから解毒剤の在処を教えたのだ。そなたは良い友人を持ったようだな」
 硬質な音とともにルックはカップを置いた。内容からして心当たりはひとつ。 スカーレティシアの毒のバラの花粉に侵されたとき。はぐらかして教えてはくれなかったが、テッドはウィンディの研究室に忍び込んで解毒剤を持って来たのだと検討がついた。
「その顔だと知らなかったようだな」
「悪かったね」
 バルバロッサとテッドがすでに面識がある。
 そのことに驚いたのと同時、悔しさを感じたのはどうしてだろう。教えてくれてもいいじゃないかという子供っぽい心と、彼らしいと納得する頭。
「大丈夫だ。私にはそなたの友人を奪うつもりなどないからな」
「……なにそれ」
「私にはウィンディだけで十分だ」
 余裕のある声は真実をありありと映し出す。皇帝の本音に相違はなかった。
「僕がウィンディを殺すかもしれなくても?」
「本国からそのように命を受けているのか?」
 どうやらバルバロッサはルックの背景を知っているらしかった。
 確かにハルモニアと縁ある赤月帝国の皇帝ともなれば、神聖国の神官長の容貌を知っていても不思議ではない。 なにせテオ=マクドールがヒクサクの肖像を持っていたくらいである。 「僕が受けている命は<門>を回収することだ」
「ならば問題なかろう」
「ウィンディは<門>を宿して三百年以上にもなる。外せば命に関わる。わかってて言ってるの?」
「だが、それは彼女を殺そうとしてのことではないだろう」
「結果的には同じだよ」
 言い募るルックを綺麗に皇帝は無視した。いらだちを隠しきれないルックをよそに茶の味を楽しんでいる。
 バルバロッサが考えていることがなんなのかまったくわからない。
 ウィンディを殺す意図はなくとも、真の紋章を奪えば。
 結果的に彼女は死に至る。
 それは殺すことに他ならない。
 どうして皇帝はルックの行動を肯定する。
 彼の愛する命を奪おうとしている少年の。
「真の紋章を持つ者が命を落とすのは、どうしてだと思う」
 淡々と男が口を開いた。
 どうにかして納得できる回答を拾おうと、ルックがこころを澄ます。一言も聞き漏らさないように、些細な表情の変化も見逃さないように。
「真の紋章の力は強大にして、継承者には不老の呪いをもたらす。にも関わらず、数百年という長きにわたって紋章を持ち続けることのできるのは数えるほどだ」
 例えば、<月>の長老。調和を戴く<円>の男。<門>の姉妹。
 少なくとも、最初に紋章を持ったという純粋なシンダルの血を持つ人間は知られていない。
「紋章は争いの的になることもあろう。だが、それだけが継承者が交代する理由ではない」
 言い聞かせるように言葉を区切り、継ぐ。
「継承者は自ら滅びるのだよ」
「どういう」
 反射でルックは尋ねた。現人神を戴くハルモニアの民として、聞き逃すことができない部分であった。
「人は誰しも、漫然と生きることはできない。生きる目的を失えば、永遠など歩めるものではない。あるいは、生き方故に殺されるかどちらかだろう」
 果てのない途を行くには、強い強い精神が求められる。時を重ねるごとに周囲から忘れられていく孤独、それを凌駕する意志。 前提としてそれがなければ、ヒトの範疇をはるか超えた年月はまさしく呪いとしかならない。
 また、そうやって生きたことで周囲から敵視され命を狙われることも当然ある。
 ウィンディに狙われるヒクサク。
 リン=マクドールに追われるウィンディ。
「そなたがあれを恨んで殺そうというのであれば、私は全力で阻止しよう。けれども、そなたにはあれに個人的な恨みがない。なれば、放っておくのみ」
「普通はあべこべじゃない?」
 命令だからと振る舞うルックの方が質が悪いように見える。
「あれは哀しくて愛しい女だ。あれの生き方を否定されるほうが私にはつらい」
 歌うように述べて、皇帝はルックの視線をやんわりと外した。
 つまり、こういうことか。
 バルバロッサはウィンディを愛している。愛しているが故に、彼女を形作った彼女の人生を否定されることを赦せない。彼女を赦すから現在の彼女の行動を認める。 それが統治者である己の責務に反すると知っていても。
 釈然としないものが残るが、皇帝の考えを理解したいという部分はなかった。
 一国の国民の命を預かる為政者がしていいことではない。愛という言葉は彼の、彼らの行動の免罪符とはならないのだから。
 潔癖に割り切ると、ルックはひたりとバルバロッサを見据える。
 すべてを受入れている、凪いだ男の瞳。
 継承戦争を勝ち抜いた過去を思わせる苛烈さはない。
 だが、柵のない受容を感じとった。
 ヒクサクのものとは違う。……彼の持つ寛容さには、きちんと境界がある。そのうちに在る者には深遠の赦しを。以外には容赦のない断罪を。
 自分にとって当然で心地よかった基盤。それを持たない皇帝。
 バルバロッサはかつての覇気を失ったというが、きっと違うのだろう。
 例えれば、今の彼は故国の神殿で見た、敬虔な神官。
 彼は王者から聖職者へとなってしまったのだ。
 人間として問題となることではないが、皇帝としては赦されない大罪。
 ……だからこそ、ルックは切り出すことができた。
「その剣」
 細い指で、皇帝が佩いている竜王剣を示した。
「真の紋章を宿すその剣なら、僕を『完全に』殺すことができる?」
 緑の視線には真剣さしか見当たらない。



 見つけた。
 床には数冊の本が乱雑に散らばっている。そのなかの一冊の記述をテッドは食い入るようになぞる。
 床についた両膝、乗り出した上体を支える両腕から汗が伝う。べたつく嫌な汗だと思った。
 生き延びること、逃げ回ることで精一杯だった三百年。この期に及んで足掻くように、ウィンディの裏をかく方法を探し続けた。
 どうあっても自分の命はあの女に掴まれている。逃げることはできない。
 テオと対面したときに理解した、自分の無力さ。
 彼女に促されるままに唯々諾々と言葉を吐いた自分を、テッドは認めなければならない。
 ウィンディはさぞ気をよくしたに違いない。必ず、次も同じ手を使う。
 否、次こそが本番なのだ。
 操り人形になったテッドを使って、直接に<ソウルイーター>を手に入れるつもりなのだ。
 考えるまでもなく、そんなことはわかっていた。
 そんなのはごめんだ。自分の口が意図しない言葉を垂れ流し、あいつから同情をもらおうと必死になるなんて。
 その一念で見つけ出した方法。
 ブラックルーンは闇の紋章をアレンジしたもの。
 <ソウルイーター>は闇の紋章の最上位。
 継承者として生きた年月の深さ。
 真の紋章を外しても、次の瞬間に死ぬことはない。それは真の紋章とのつながりがわずかに身体に残っているから。 紋章の残滓が完全に消えてしまうまで、なんとか生きていられる。
 そして真の紋章は、生み出したすべての眷属に干渉することができる。
 今、未だに生きている自分。
 だとすれば。
 単純な予測に過ぎなかったそれを、確固たる方法に変化させる知識。
 とうとう見つけた。
 文字列を頭のなかに叩き込みながら、テッドは目を閉じる。
 あとはそのときに実行するだけ。それまで、彼がこの方法を手に入れたことを誰にも知られてはいけない。
 魔女はもちろん。
 同室の紋章に関しては驚くほどに勘が働く少年にも。
 知ったら今のルックのことだ。どうにかして回避しようとするだろう。
 しかし、それは許さない。許せない。
 これは自分の因縁。
 己と彼女で終わらせなければならないこと。
 自分勝手だとわかっているが、ルックはおろかリンにさえも選択肢を与えるつもりはなかった。
 ウィンディ。
 見ているがいい、紋章に振り回される哀れな女。
「おれは紋章を制して死んでやる」
 絶対に、おまえの思う通りになんかならない。


<2005.9.11>


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