奏幻想滸伝
          暗中模策3


「ウィンディさま、入ります」
 魔法兵団の控え室に隣接した彼女の部屋の扉をノックする。
 魔法兵の徽章をつけた男が何人かルックを見て、目を見張っていた。どうせこの顔か、あるいは年齢に驚かれているだけだろうから相手をせずに返事を待つ。
 そういえばと、なんとなく魔法兵団に視線を流した。
 およそ一年半前までは、ルックもここにいたのだ。あの頃はまだ反乱軍などというものは存在せず、治安維持と紋章実験に駆り出されていた。
 もともと魔法兵団に長くいるつもりはなかったから、必要以上の力を出すこともなく。当然、注目されたこともない。 年齢と容貌ゆえに多少の気を引いたかもしれないが、あのなかでルックを覚えている人間は少数派だろう。
 ルックの方でも同僚の顔を覚える気などさらさらなかった。それでも、いちおう兵団長クラスの人間はわかるつもりだった。
 けれども、こうしてざっと見渡す限りではピンとくる顔がない。
 戦に敗れた責任をとって軍を辞めたか、あるいは戦死したか。おそらく後者。人手不足が慢性化している帝国軍では、辞職など許されることではない。
 後方支援でも、これほどの死者が出ている。
 その事実に彼は驚きを隠せない。ハルモニアは紋章の国。魔法兵団は攻守ともに最強だ。ルックの周りで、魔法兵団の戦で死人などほとんど無かった。
 いや、それだけじゃない。
 帝国軍魔法兵団は名目上は宮廷魔術師であるウィンディが率いているが、実質は違う。彼女はまったく関与していない。
 対して。反乱軍の魔法兵団はササライが直接に統率している。真の紋章の受け皿として極上の肉体と、ハルモニアの基礎、レックナートの薫陶を受けた彼が。
 それだけでも歴然とした差が出るのに、指揮官の存在という各軍の士気を考えれば当然の結果だといえるかもしれない。
 もっとも、魔法戦を得意とするソニアの軍は完全に余力を残している。結果は簡単に予測がつくとはいえ、あっさりと負けてしまうことはないだろう。たぶん。
 ここまでたっぷり思考して、ようやく女の声がした。
「失礼します、ウィンディさま。反乱軍のサンチェスから連絡です」
 軽く膝を折って、執務机で指を組んでいた彼女に情報を差し出す。もちろん、ルックの検閲済みである。
「反乱軍軍主リン=マクドールが部下を率いてロリマーに布陣中のネクロード卿に戦を仕掛けるそうです」
「そう。もうそんな時期かしら。軍主に同行するのは誰?そして、経緯を簡単に教えてちょうだい」
「同行者は不明です。しかし、ロリマーの戦士の村出身ということで、反乱軍の初期メンバーで幹部にあたるフリックという者が同行するのは間違いないかと」
 丁寧に答える。
「今回彼らは集団戦闘ではなく、ネクロード卿の城へ少数精鋭で乗り込む策をとっていますが、人選は難航しているようです」
 これは嘘の情報である。サンチェスによれば、軍主に同行するのはフッリクの他に、元傭兵で歩兵団団長を務めるビクトール、守り役のクレオ、 援護を考えてササライ、そして戦士の村のヒックスという若者に決定している。
「戦士の村の長の娘がネクロード卿の花嫁に選ばれたことに不服とした者を卿が城へ招待する、という趣向のようです」
「まったく」
 ウィンディが重い溜め息をついた。
 ルックもそうしたい。初めて報告を読んだとき、彼にはまったくもって珍しいことに笑いをこらえてしまった。
 自分の領域に力を削いだ敵を誘い込んで、倒す。目のつけどころとしては悪くないかもしれない。けれど。 どう好意的にとっても、吸血鬼が無理矢理に女性をさらったことの副産物としか見えない。
 作戦や戦略ではない。成り行きである。
「まあ、いいわ。ネクロードのあの癖は今日に始まったことではないもの。リン=マクドールから<ソウルイーター>を奪って来さえしてくれればいいのですから」
 どうやらルックの顔に表れていただろう感情に対して、ウィンディが強く言う。まるで、自分を納得させるような仕草だった。
「あちらからの情報は以上です」
 あっさりとルックは会話を締める。
 実は、もたらされた事柄はまだある。
 特に一番重要な星辰剣については、単語すらも出していない。ロリマーにあるクロン寺院にあったそれは、吸血鬼を倒すことのできる剣である。 真の紋章のひとつ、<夜>の化身であるという星辰剣にウィンディが興味を覚えることは間違いなく。 さらにはネクロードが敗れる可能性も格段にあがるとわかっていて、それでも話すつもりは微塵もない。
「ありがとう」
 それをウィンディは疑う素振りもない。
 どうしてか、それが苛立たしい。
「ルック。おまえ、反乱軍との次の定期連絡はいつなのかしら」
「一ヶ月後です。前任者と変わりません」
 それが何か?と視線をあげる。
 彼女の蒼の瞳が、いつもとは異なった色彩を浮かべているのに気がついた。企むような、というには軽く。悪戯を思いついたという感じ。
「手を」
 にこりと。かつて見たこともない笑みで促される。反射で差し出すと、くいと手首をつかまれた。
「ウィ、ウィンディさま?」
 他人との接触にルックはまったくといっていいほど慣れていない。相手が誰であろうと演技でなく本気で狼狽えてしまう。 そんな少年には関係なく。彼女は今度はルックの両肩に手を置く。広さを確かめるようにしたあと、頭のてっぺんに手をかざして水平に動かした。
 何がなんだか呆然としているルックには構わない。
 他にもいろいろと不可解な動作をし、ぱたりと手を放す。
「下がりなさい。一週間後に、別の仕事を頼むのでそのつもりで」
「別の……?」
 少女のような表情の魔女は無言で促す。
 逆らう理由もなく、ルックは踵を返した。しかし、頭のなかは疑問符でいっぱいだった。



 そしてきっかり一週間後。
 完全に面白がっているウィンディの前で、ルックは答えを身をもって思い知った。

「あの、ウィンディさま」
「なにかしら。ああ、そんな風に動いては駄目。幻術では顔かたちを誤摩化せても、仕草まではどうにもならないのよ」
「外見が騙せるんであれば、こんな格好をする必要はないでしょうっ」
「あら」
 普段従順なルックが本気で抵抗する様に、ウィンディは心外だと言わんばかりに瞳を開いた。
「だって、おまえは演技が下手そうなのですもの」
 反論したくてもできない。
 さらに、一押し。
「それに、いつもの法衣だとドレスの裾なんか意識した演技ができるわけがないでしょうし」
 ぐっと、ルックは自分の『ドレス』を握りしめた。もちろん、女性物の衣装などこれまで身につけたことのない彼にとって、彼女の言わんとしていることは理解はできる。 理解はできるが。
(これも任務のうちだというのですか、ヒクサク様)
 遥か北の国でこの事態を楽しんでいるであろう主に、言葉にはせずに悪態を続ける。首に下げた指輪型の通信機から、この状態は筒抜けである。
 今回のウィンディの命令は単純だった。すなわち、彼女が竜洞に赴いている間に彼女の影武者を務めよという。
 只人であれば、背格好の似た者を用意し、急な病だとでも言って寝台に縛り付けておくのが一番の安全策。けれどもウィンディは卓抜した魔術師だ。 それに現在の赤月帝国で彼女が患ったともなれば、国が乱れること間違いない。
 そこで、ウィンディは幻術で目くらましをかけ、あたかも彼女が城で普段通りに生活しているように見せかけることにしたのだ。
 また、命令だけを守る人形であれば彼女の力で作ることもできるが、今回は不測の事態に備えて臨機応変な対応が求められる。となれば、本物の人間で偽装するしかない。
 よりによって少年のルックに白羽の矢が立ってしまったのは、魔力の高さゆえ。 術者であるウィンディに負担が少なく、かつ長時間の効果を得るには、対象となる人物の魔力を利用するのがもっとも効率がいい。
 条件を揃えていたのがルックだった。
 まさかこんな状態に追い込まれるとは思ってもいなかったのだが。
「……人前に出るのは最低限で構いませんね」
 確認する。いくら他人には『ウィンディ』に見えるにしても、この格好で城を歩くなど恥ずかしくてできるものではない。 テッドに会ってしまったりしたら、もうどうしていいかわからない。
「ええ、構わなくってよ」
 遠回しな了承を認めて、彼女は微笑む。従うことを疑わない人間の、余裕のある慈愛に満ちた表情だった。
 女がさっと右手を振った。手にしていた長杖が淡い蒼の光を帯びる。それは右手に宿る<門>から溢れ出たもの。
「三日後には戻ります」
「かしこまりました」
 ルックが軽く膝を折って顔を伏せると同時、光が視界を灼く。波は一瞬で消え、残されたのは彼ひとり。
 はあ、と本気で溜め息をつく。イライラしたときの癖で髪に手を入れようとしたが『寵妃』らしくない行動だと気がつきどうしようもできない。
 これで三日も保つだろうか。
 否、保たせなければならない。
 どうせならばこの機会に、ウィンディの周辺を調べておこう。
 なにか面白いことがわかるかもしれない。
 それに宮廷魔術師としての彼女の研究室なら迂闊に人が入ってくることもないはず。
 決心するとかつて何度か訪れたことのある場所へと歩き出した。



 さて、時間はやや遡って。
「僕、しばらく戻らないから」
「ご苦労様。今度はどこ行くんだ?」
「どこにも」
 簡潔な答えに目を瞬かせたテッドに。ルックは面倒くさそうに答えた。読んでいるのかいないのか、つまらなさそうに本の頁をぱらぱらとめくっている。
「ウィンディが三日くらい城を空けるんだって。で、その身代わり」
「ふうん、じゃあ」
「なにもやらないよ」
 途端に瞳を輝かせたテッドを先制する。ぱたんとわざとらしく本を閉じて、ルックは椅子を退いた。
「おい、おれまだ何も言ってな」
「言わなくても予想くらいつくよ。どこから見てもウィンディな僕がこの部屋に近づけるわけないだろ。しかも差し入れ持って」
 彼女は宮廷魔術師であると同時に皇帝の寵妃でもあるのだ。
 テッドの存在は秘されているが、ルックは公式に認められている帝国軍の一員。誰もが彼の部屋がここであると知っている。
 もしルックが容姿であれ頭脳であれが凡庸であれば、目立たずにいられたかもしれない。しかし、はっきりと美少年な彼のもとを寵妃が訪れるのは非常に問題である。
「ちぇ、久しぶりに美味いモン食えると思ったんだけどなー」
「贅沢言わない。食料事情が酷いのはこっちも同じ」
 帝国軍の敗色が漂い始めるに従って、食事の質は落ちていた。戦時下でもっとも優先される、 軍属であるルックのそれが目に見えてわかるのだから、捕虜であるテッドのは言うまでもない。
「それにしてもおまえは文句言わないよな」
 ふと思いついてテッドが呟いた。事情を完全に把握したわけではないが、ルックがハルモニアの神官将候補として英才教育を受けたことは知っている。 生粋の円の宮殿育ちの彼にとって、今の食事に愚痴のひとつも出ないのは驚異的だ。
 そんなテッドにルックは瞬いた。きょとんとした表情は明らかに驚いている。
「……言ってなかったっけ」
 ぽろりと零れた言葉。
 次の瞬間、しまったという色彩が彼の緑の瞳に浮かんだのを見逃すテッドではなかった。
「何を」
「いや、なんでも」
「ないという顔ではなかった」
 訊かれたくないこと、話したくないことには踏み込まない。不文律が出来上がっているふたりだったが、例外も存在する。 特にああいう顔をしたときには放っておいてはいけないと直感がある。年の功だ。
 睨み合うように視線がぶつかり合い、結局負けたのはルックだった。地面に斜めに視線を落とす。
「わからないから」
「何が?」
 主語が抜けた回答。そここそが重要。
「食べ物の味。このごろ、味覚にきたみたいで」
 言いたくなかった、というように声がだんだんと小さくなっていく。立ち上がりかけていた身体が、椅子へと逆戻りしていた。
「……だから、本当は将軍の家とか招かれたときとか、料理とか、全然」
「悪い」
 続く台詞を謝罪で遮った。
 言わせてはいけないことを話させた。ルックにしてみれば、彼の身近な人間にとっては普通のことだった。けれども、秘密にしておきたいことだった。そういうことだろう。 だから最初の音節。言ってなかったっけ。
「あんたが謝ることじゃない。今のところはまだなんとなくわかるし」
「……今のところ?」
 訊き辛いことではあったが、聞き流せない単語だった。
「そう」
 今度はまっすぐにテッドの顔を見据える。一端を明かしてしまったことで、感情が堰を切ったようだった。
「呪いのない真の紋章なんてないってこと。僕の場合は歪んでるから本当の呪いの型とは異なるんだけどね」
 感覚がひとつずつ消えていくんだ。
 完全にないのは色覚。進行中なのは味覚。次に何が消えるかは予測できない。どのくらいで失うかもわからない。明日かもしれないし、一年後かもしれない。 ヒクサク様の推測だと、聴覚だけは逆かもしれないって。音は風が好むから。
 淡々と話す少年の姿に、どう返していいかわからなかった。
 テッドの呪いが外へと向かって放たれるものだとするならば、ルックのそれはひたすらに内へと向かう。継承者自身を蝕むものだ。
 沈黙を破ったのはルックだった。
「同情はいらないよ」
 かたりと、今度こそ椅子を立つ。
「これは罰だから」
「罰?」
 反射で問えば、反則のように鮮やかな緑。
「世界を滅ぼすとわかっているのに、生きている罰」



 あの、色彩が忘れられない。
 どういうことかと意味を問おうとすれば、ウィンディが呼んでいるからと逃げられた。
 そう、逃げられたのだ。あのタイミングで聞けなかった。おそらく二度と尋ねる機会はない。
 しかも三日も間が空いてしまう。次に会ったときにこの話題を出すことすら不自然で不可能。
(放っておけないよなあ)
 事情がどうであれ、どうにかしてやりたいと思ってしまう。自分に時間がないとわかっていても。
 右手を目の前に掲げる。
 どす黒い感情をまき散らすブラックルーン。
 自分の力だけでなく、ルックの助力があるからこそウィンディに完全に操られずにすんでいるとわかっているのに、時々抑えきれなくなりそうになる。 できる範囲で精一杯をしてくれているルックに対して無理難題を言いそうになる。怒鳴りたくなる。手をあげたくなる。
 限界が近い。
 それだけではない。
 ウィンディは徐々に追いつめられている。『切り札』として生かしてきた自分を使おうとする日は間もなく。
 そうなってしまったら、もう何もできない。迷惑をかけるだけだ。
 遠く離れた最初の親友にも、最後の友人にも。
(それまでに、できることはしておかないとな)
 幸いにもウィンディは城にいない。時間的に考えてテッドの意志はすでになくなっているものだと彼女は決めつけている。 ルックもそう報告しているらしい。おかげで、最近の監視の目はだいぶ緩んだ。
 意識を切り替えると、テッドは扉に向かって歩き出した。
 ルックにも頼んであることだが、限界がある。実際に求めた資料を彼が調べれば、テッドが何を意図しているのか気づかれてしまうかもしれない。
 これは自分の戦い。いくら自由が限られているからといって他人任せにしていいわけがない。
 最初の親友と、最後の友と。
 ふたりのために手を尽くして方法を探し出さねばならない。
 いつものごとく、鍵はかかっていなかった。


<2005.9.6>


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