彼の不在、彼女の不在5 男が尋ねたのは、まったくの出来心だった。 「この戦争が終わったら、あなたはここをどうしたい?」 返事を望んでいたわけではない。かといって沈黙を望んでいたわけでもなかった。 彼の戴いた主は、軍師の頭脳を超える。それは決して優秀、という意味ではなく。表現するならば、突拍子もない。 しかし、人間の思考を読み続けた男にしてみれば、こんなふうに読めない相手は興味深く心地よささえ感じる。 「うーん、そうだなあ」 湖からの風に布をはためかせながら、少年は天を仰いだ。突き抜ける青空。 「遊園地、かな」 「……はい?」 「だって、戦争が終わったらいらなくなっちゃうでしょう?みんな、家に帰れるんだから」 この城は、仮の宿に過ぎない。そう、笑顔で言う。言い切ってしまう。他ならぬ城の主が。 「でも、せっかくだしもったいないし。だからね、誰かが懐かしくなったときにいつでもここに遊びにこれるようにしておけたらいいよねえ」 少年の柔らかい言葉に、男は静かに返した。 「ここを、お出になるつもりですか?」 責めているともとれる口調。いわゆる普通の人間であれば、これだけで頭を垂れずにはいられないような剣幕。 だが、さすがというべきか。英雄と呼ばれる少年は動じることはなかった。 「それを決めるのは僕じゃありません」 ひだまりの表情。そのなかで瞳は揺るがない強さをあらわしていた。 「では、誰が決めるのです?」 奥底では理解しながらも、問いかけた自分はどこまでも愚か。あるいは、自傷。自嘲しながらも、おそらくは二度と現れないこの少年を生涯の主としてつなぎ止めることなどできない自分をも知り尽くしていた。 少年は答えなかった。湖から吹く湿った風が髪をもてあそぶに任せたまま、一見して無邪気ともとれる笑顔を崩さない。 「答えないだろうってわかってることをわざわざ聞くなんて、軍師としては失格じゃないの?シュウさん」 切り返し、さらに言葉を重ねる。ただし、今度は悪戯っぽく。 「だから、広間のおっきな椅子、売り払っちゃってくださいね?座る人もいないのに、ホコリまみれにしておくのは意味ないですから。あれ、けっこういい値段がつくんでしょ?」 そして、一息。 「この国に、この軍に。玉座なんていらないんですよ?」 国を追われた英雄の息子は、容赦なく断罪した。 *** 戦に勝利をおさめ、城にはアルコールと笑顔がばらまかれていた。これからのことで考えなければならないことは山積みなのだが、それらを頭の片隅に追いやるようにして人はお祭り騒ぎを繰り返す。 シュウが湖を渡って帰ってきたのは、そんな浮ついた空気が奇妙な緊張をはらんで漂っていたときだった。 船着き場で船を降りると、声こそかけられないが視線が集中するのを肌で感じる。 ルルノイエ陥落から既に半月が過ぎている。王都から凱旋した英雄が、そのすぐ次の夜に駆け出していってから、早数日。 最初は勝利に喜び。次に英雄の不在に戸惑い。複雑な表情を漂わせていた住人たち。しかし、ここに集っていた人々は解放の浮かれた気分からようやく、現実の大地に目を向け始めていた。生きていくために。 あるいは、自分たちが旗頭へと押し立てた少年へ誰もが少なからず罪悪の気持ちを持っているからかもしれない。 唯一英雄の行方を知るであろう、軍師へとなんの言葉もないのは。 もっとも、それは市民階級の人間だけだった。 規則正しい早歩きで向かった先、広間の扉の前には同盟軍の幹部の面々がそろっていた。アップル、クラウス、テレーズ、ジェス、……。 「足りないな」 ゆっくりと見渡すと、シュウは評した。城を出るときには確かにいた、何人かの顔が欠けている。 「ビクトールとフリックは面倒なことになるまえに逃げました。シュウ兄さんにはよろしくと言っていました」 アップルが説明すれば、傍らでシーナが続ける。 「魔法兵団長とトランの英雄様も『用は済んだから』って出てった。で、これが預かりもの」 小さく折り畳んだ紙片を渡される。開いてみれば、几帳面な文字でびっしりと名前が書き込まれていた。 「いいものを見せてもらったお礼、だそうで」 「ありがたく受け取っておこう」 正直、なにを見せたのだかわからないが、律儀な魔法兵団の再編名簿はありがたい。 「それで、どうだったのです?」 聞きにくいことに口火を切ったのはジェスだった。 「彼は戻ってくるのですが?それとも、同盟を捨てたのですか?」 「ジェス、お止めなさい」 「グリンヒル市長代行、黙っていてもらおう。これは、白黒はっきりつけなければならない問題です。彼がここを捨てたのであれば……」 「捨てるのなんのって、それがテレーズさんのお気に召さないと思うんだけどなあ」 「黙っていろ、部外者」 「へえへえ」 シーナを抑えて、改めてジェスがシュウへと向き直った。 「私が見送ってきた」 かっとジェスの顔に朱が差した。 「それでは……!」 怒りの滲む握りこぶしに、テレーズが水をさす。 「ああ、やっぱり」 どこか、うっとりとした声でもあった。 一触即発な雰囲気を瓦解させつつ、それに気がつかないお嬢様市長は続ける。 「かわいい子には旅をさせろと古来よりいいますもの。たしかにリクさまは今のままでも十分に立派な軍主。けれどもより強い試練を経て、さらに磨きをかけようというのですね」 「……そういうことだ」 なんだかすごく夢が入っていた。だが、女の妄想を否定するとろくなことにはならない。 「それでは、当面の最高責任者を決定しなければなりませんね」 クラウスが生産的な提案をする。 「そうだ。リクさまは『玉座なんぞ売り払ってしまって当面の資金にせよ』と仰せだったが」 かなりの誇大表現だが、要約の意味は間違っていないはずだ。 シュウは広間の扉に手をかけた。こんなところで大物ばかりが集まっていては目立つ。そのうえ、今から話し合わなければならないのはこの国の行く末だ。廊下で、立ち話はまずい。 目線だけで面子を見れば、立場を心得ているシーナが手をひらひら振って背を向けた。他の同盟の人間がついてくるのを確認して、シュウは広間へと踏み入れる。 背後をぞろぞろ歩く気配に対して、階段の数歩高み。どっしりと構える玉座を指差す。 「やはり、あの椅子に座る者を決めざるを得ないだろう」 と、その人差し指が震えた。 他の者も、『……ん?』とばかりにそこを凝視する。 同盟軍を率いた彼が不在である今、そこは当然のことながら空でなくてはならない。 しかし、ちんまりと、影が鎮座していた。 一体誰が、なんの悪戯を?! 第一、この広間は軍主が出奔して以来、一度も鍵を開けていないのだ。どうやっても入れるはずがないというのに。 同盟軍の軍師たちが慌てて走りよるも、それは微動だにしなかった。 シュウ、クラウス、テレーズ、ジェスと四人が固まるなか、意外にもアップルが冷静だった。 「ムササビ、ですね」 そう、玉座で暢気に熟睡しているのはムササビだった。黄色のマントをしっかりと肩で結び、いつぞやの『石版ムササビ事件』で見たような金のサークレットをはめていた。 これが誰を表しているのか、わからない人間はこの場にいない。 「シュウ兄さん、何かを持っています」 「……ああ」 言われるままに、手を伸ばし、ムササビが両手で抱きしめている封筒を取り上げる。ムササビに目覚める気配はない。 封を解いて、紙面に目を走らせる。 その瞳にはしっかりとした光があった。 おそらくはどこぞの子供の悪戯に不快な思いをしただろうと予測していた面々は、裏腹な彼の表情へと怪訝な顔。 だが、どこか明るささえも滲ませて、軍師の顔で彼は断じた。 「どうやら、おまえは口実をくれたようだ」 握りしめられていた手紙が床へ落ちる。 綴られた文章が、その思いを物語る。 同盟軍のみんなへ すごくすごくわがままなことをしてると思ってます。 うちがこれからだってときに抜けるのは勝手だとわかってます。 でも、これだけはダメなんです。 僕はからっぽの玉座なんていらないと思ってます。 誰かが埋めるつもりがないんなら、さっさと捨てちゃってください。 僕が座るためだけに、とっておかないでください。 お金にもならないでホコリかぶってる方がもったいないです。 リク 「空にしておかなければいいのでしょう?」 あの英雄がいつかここに帰るまで。 「そういうことだ」 全員の熱い視線を集めながら、今日もムササビは惰眠をむさぼっている。 彼の不在を守りながら。 |