彼の不在、彼女の不在1



 リストアップしてもらった本を両腕に抱えて、貸し出し手続きをする。
「あら、ニナちゃん。これ、全部読むつもりなの?」
 本を受け取ったエミリアは、かなり高度な戦術書も含まれていることに気がついて尋ねた。
「いえ、私が読むのは半分もないんです。あとはテレーズさんに頼まれたもので」
 現在、軍主は交易ツアー開催中。義姉とムササビ×4を引き連れ、城を飛び出している。


 平常時の軍務はほとんどが決済書類との戦いである。ニナが手を出していいレベルではない。 上司であるテレーズの傍らで半日も雑務をこなしてしまえば、残りは自由時間になってしまうのだ。
 新しくできた友人たちとおしゃべりに花を咲かせるのも悪くはないが、それはあくまでも息抜きレベル。 やらなければいけないことはいくらでもあるし、自分から軍師付きという今の立場を志願した以上、手を抜くのはイヤだった。


 そういうわけで。
 アップルに選んでもらった軍師付きとしての入門書と、ジーンが薦めてくれた紋章術の初級実践本。
 指差しながらニナは笑う。
「今までの学校の勉強と全然違うから、覚えることが多くって」
「そうかもしれないわね。頑張って」
 柔らかな表情でエミリアは言うと、なにか思い出したのかカウンター代わりに使っている机のひきだしを開ける。
「ヒルダさんにいただいたものなんだけど、一人じゃとても食べきれそうにないから」
 お勉強のあいだにどうぞ。でも、本は汚さないでね?
 渡されたのは、青いリボンがかけられた数切れのパウンドケーキ。




 図書館を出てテレーズのところに本を渡しに行って、帰り際にいくつかの用事を頼まれて。
 結局、自分の時間が持てたのはレストランで夕食を済ませてからだった。
 同室の少女たちはこれから音楽隊の舞台を見にいくらしい。ニナも誘われたが今日のところは断っておいた。
「うーん、残念だねえ」
 と言ったのはミリーで。でも、無理強いする気はないらしく、メグやアイリなどと賑やかに出ていった。 お土産は何がいいー?というよく分からない言葉を残して。
「さて、がんばらないとねっ」
 こぶしを小さく握って気合い入れ。
 相部屋では一人になれることは滅多にない。この機会にできるところまで読んでしまおう。
 正面に戦術入門書。右手に紅茶のポットとティーカップ。左手にはエミリアにもらったパウンドケーキ。
 ニナにとっての完全戦闘態勢だが、これだけでは不十分かもしれない。
   すこし考えて、窓をちょっとだけ開けておくことにした。今の季節、夜ともなれば風は冷たい。
 眠気覚ましくらいにはなってくれるかな。
 期待はしたものの、やはりそれは期待だけだったみたいで。




 なんだろう。
 背中がちょっと重い。
 あ、でもなんか温かいからいいかな。
 誰か毛布かけてくれたのかな。それにしてはちょっと……。
 て。
「やだっ、寝ちゃった!」
 思わず叫びながら、がばっと体を起こした。
 途中まではそれなりに順調に進んでいたのだが、百何十年か前の軍師の言葉というのがあまりにもつまらなくて、たぶんそこで気力が尽きたのだろう。
 はあ、と溜め息をついて部屋を見渡した。まだ、誰も帰ってきていないらしい。
「?」
 釈然としない感覚にニナは首をひねった。
 なにかおかしい。
 目が覚める前の思考をなんとかなぞり直して違和感の正体に気がついた。
 温かかった気がするんだけど。
 毛布と勘違いしたんだけど。
 けれど誰もいないというのはどういうこと?
「あれ?」
 まだ、あったかい、……?
 毛布というほどの面積はまったくない。第一、そんなものだったら自分が目を覚ましたときのリアクションでそれは床に落ちているだろう。


「ムムムー……」


 耳元で不満げな鳴き声。
 これってもしかして。
 なかば確信して背中に手をやると、ぽとりと床に何かが落ちた。軽い音。
 体をひねってその物体を確認すれば。
 くりくりとした黒い瞳とぶつかった。
「ムササビ?」
 名前はなんといったか。青いマントのマ行ムササビ。
 軍主が苦労してかき集めたムササビのうちの一匹。
「交易につれてったんじゃなかったっけ」


 今回の交易ツアーのメンバー。
 軍主。その義姉。残りムササビ。


 あ、定員オーバーだわ。


 なんの理由があったかわからないが、一匹だけ置いていかれてしまったらしい青マントムササビ、マクマク。
 開いていた窓から入ってきたのだろう。 ニナの背中に張りついていたのは、そこが着地地点として手ごろだったからか、はたまた一人旅の人間を放っておけない、 すなわち独りきりでいる人間の手助けをしたいというムササビ体質によるものか。
 なんにせよ、ムササビの考えていることはわからない。
 それでも。 くっついていたのがよりにもよって『青い』マントのムササビだという、どうしようもなく些細なことがなんだか嬉しくなってしまった。
 くすくすという笑いが止まらない。
「マクマク、パウンドケーキ、食べる?」
「ムー」
 こっくりと頷く様子が、ニナにとってはまた嬉しくて。
 広げていた本を片付けると両手でムササビをすくいあげる。
 ケーキを渡すと両手でしっかり持って食べはじめた。
 そしてふと思いつく。
 エミリアにこれをもらった時のラッピング。
「ちょっとじっとしててね」
 一応断って、きゅっと結ぶのは青いリボン。


 フリックさん、ムササビバージョン。


 笑いが止まらない。
 どうしてだろう。
 一心不乱にパウンドケーキを食べるムササビ=フリックがおかしいのか。
 はたまたそんなばかなことをして和んでしまっている自分がおかしいのか。
 わからないけれど。


 今度、ケーキを焼いてあの人のところに持っていこう。
 青いリボンをかけて、ついでに青いムササビと一緒に。







幻想水滸伝目次
2へ
総合目次