自分たちは特別な言葉を子どもに贈った。
 何があっても、子どもが泣かないように。迷わないように。言い訳になるように。
 迎える両手があるのだと、頑な子どもに教えるために。


 ヒトとモノが溢れるケセドニア。
 各都市の情報が交錯する街にある酒場は、漆黒の翼にとって最も重要な拠点のひとつだ。
 毛色の変わったものが流れ着けば、彼女ら自らが足を運ぶこともある。まさに今回がそんなケースである。
 カウンターにひとり腰掛け、ローズのマニキュアで艶やかに飾った指をながめるふりをしながら、ノワールは酒場の隅に視線をやった。
 同じカウンターの一番端。わずか影が落ちる席にその人物は座っていた。
 のんびりとグラスを傾けている。
 しかし、その格好はあまり普通とは言えない。店の中にもかかわらず、フードをかぶっているのだ。
 もちろん、ケセドニアには様々な人間が集まり、この酒場は最たるものだ。それでも、そういった客が一週間も続けて訪れているというのは何か目的があってのことだろう。
 今回、目的といえば漆黒の翼との接触としか思えなかった。
 漆黒の翼と正式なコンタクトをとるにはパスワードが必要なのは、それなりに有名な話だ。彼らが信頼を置く人間が依頼者を判定し、パスワードを教えることで初めて連絡が可能になる。これがなかなか難しく、依頼を受けてもらえるかはさらに難しい。与えられるパスワードも、ころころと変わり、しかもランクがある。モノによっては逆に敵とみなされるし、無条件で力を貸す場合もある。ただ、それを預けるに値した人間は、片手ほどもいなかったけれど。
 そうと知ってもあきらめられない連中が、酒場まで押し掛けてくるのは珍しい話ではなかった。
 これもそうかもしれない。
 考えもしたが、結局、リーダー格であるノワールが来てしまったのにも理由がある。

「ご注文は?」
「いつものものを」

 にこやかに話しかけてきたマスターが、自然な仕草でそっと彼女に耳打ちする。

「似ていませんか?」

 問いに、彼女は曖昧に首を振った。
 男だということはわかるが、フードのせいで顔立ちはわからない。年齢はおろか、そこにあるのが、印象的な緑の瞳であるか、忘れることができない紅の髪であるか。……二年前、見送った子どもに似ているかどうかなんて。
 子どもを思い出して、運ばれてきた酒に口をつけた。甘い。
 来週はバチカルで祭りがある。世界を救った英雄の成人の儀。
 サーカス・漆黒の夢がこのかき入れ時を見逃すはずはなく、団員は全員そちらへ回っていた。本当であれば、団長のノワールが離れるわけにはいかない。
 だが、彼女はなぜだか自分の感傷を優先してしまったのだ。
 キムラスカが報じている英雄の名前はひとつだけ。その名前が二人分を背負うことを知る人間は少なく、彼女たちはなんとなく自分たちの子どもが消された感じがした。当の子ども本人は納得しているはずなのに。

「感傷かねえ」
「何がだ?」

 独り言のつもりに返答があり、はっと顔を向ける。いつの間にか、フードの男が傍へきていた。声が、似ている気がした。本来であれば柔らかい高さのそれを、意識して低く響かせようとする癖。だが、骨格が似ていれば声も似てくるものだ。ああ、なんて感傷。
 黙るノワールへ、若い男はそのまま続ける。

「隣へ座っても?」
「構わないけれど、その鬱陶しいフードを取ってくれたらね」

 上目遣いで見上げる。顔を隠している理由はいろいろ考えられるが、もしその下にあるのが犯罪者の顔であれば、アスターにでも突き出してやろうか。
 いっそ挑発的な視線にフードが揺れた。その拍子にはらりとこぼれた長い髪につい目がいく。鮮血を溶かした黄金。
 おもしろいほどに落胆している自分をノワールは自覚して、相手の顔を見た。

「……な」

 それきり声を失った彼女を見て、彼は無表情に呟く。

「銀の馬に乗る黒の騎士よ、赤の女王を迎えよ」

「何度言っても、よくわからんパスワードだ」
「ギンジも入れて四人で徹夜して考えたんだけどね。――まったく、相変わらずだ」

 ノワールはすっと微笑した。間違いない。これはあの子どもだ。

「ずいぶん長い寄り道だったじゃないか、アッシュ」
「驚かないのか」

 やや残念そうに、彼はノワールの隣に腰を下ろした。そんな彼の様子を見て、ノワールはからんとグラスの氷を崩す。

「そのパスワードは坊やがエルドラントに突っ込む前の前の日に考えた、専用のものさ。坊や以外が知ってたら大問題だ」

 ギンジを絞めにいかないとねえ。楽しそうな女に、彼の眉間の皺が深くなる。

「どうでもいいが、坊やはいい加減止めてくれ。これでも今は二十三だ」
「へえ?」

 目鼻立ちはまったく変わっていないものの、たしかに今年成人を迎える年齢には見えない。加えて、あの見事な紅の髪をどう染めたら、蝋燭の焔のような色が出てくるのだろうか。年齢詐称も変装も、別にノワールは何とも思わないが、何かしらそれと異なる雰囲気を肌で感じていた。

「それにおれは寄り道はしていない。余分な道は通ったがな」
「それを寄り道っていうんじゃないかい?いつ戻ってきたんだい」
「……六年前だ」

 沈黙は数秒。二年前に消えた人間が、六年前に帰ってくるのは明らかにおかしい。一方で、彼の容姿には彼の言い分を裏付けるだけの時間が流れているのだ。

「気味が悪いだろう?」

 視線を合わせようとしないアッシュの表情は、あの旅の終末に見せたものとよく似ていた。櫛に絡まった数本の髪が、淡く光りながら雪のように溶けていったのを目撃したとき。人間なのか複製なのか、それとも科学者たちの言うとおりヒトの皮をかぶった音素集合体なのかと自嘲していた。一番、させたくなかった顔。
 彼女はグラスから手を離すと、アッシュの髪を撫でた。何度か無理矢理にいじって遊んだことがある。色が違うだけで、触り心地はまったく変わっていない気がした。

「こんないい男を目の前にして、そんな罰当たりは言わないさ」

 二年前はあらん限りに嫌がっていた彼のリアクションは、少し笑っただけだ。それだけで、彼女にしてみれば子どもが子どもではなくなったことを知るのに十分だった。

「あんたが戻ってくるんだったら、ギンジは無理でもウルシーとヨークはつれてくれば良かったね」
「あの二人は今は?」
「バチカルさ。何せ英雄様の成人の儀があるからねえ」

 言って、ノワールは気がつく。主役の片割れはここに生きている。

「出なくていいのかい?」
「このなりでか?」

 年齢だけであればまだしも、この髪はどうしようもない。すぐにわかることに彼女は肩を軽くすくめた。

「は、無理だろうね。アッシュ、あんた今は何してんだい?」

 このままナム孤島に連れ帰ってしまおうか。なんとも心の浮く想像。

「ああ、神託の盾で師団長をしている。二年前で唯一残った師団長だから、顔は利く。お前たちには世話になったから、ダアトに来る時はいくらでも便宜を図ってやるぞ」

 穏やかな口調とは裏腹に、内容は衝撃だった。
 漆黒の翼は義賊である。一流の情報屋でもある。持っている情報網はキムラスカにもマルクトにもひけはとらない。そんな彼らでさえ、今のところ正体を突き止めることができていない人物。二年前、唯一、教団に残った師団長。

「ローラ=アシュレイ=カンタビレ?」

 無言でグラスを上げる仕草が、ノワールの答えが正解だと雄弁に語っていた。
 アッシュがどういう経緯でそこに至ったかはわからない。
 けれども、彼の様子を見ればわかることがある。そこはアッシュが自分のちからで六年間で作り上げた場所だ。与えられたのでも、奪い取ったのでもなく。そして、あんな顔ができるくらいに安らげるところなのだ。

「当たりついでに教えてやる。バチカルの『漆黒の夢』はルーク・フォン・ファブレの成人の儀が終わっても最低一週間は引き上げさせるな」
「へえ。なんでだい?」
「誕生日にあいつが帰ってくるからだ。稼げるぞ」
「それは楽しみだ」

 大所帯を養っていかねばならない彼女にとって、またとないプレゼントだった。他の誰かであれば到底信じられないことも、彼からならば、しかも彼の片割れについてならば別だ。ルークについてなら、アッシュは預言かと疑うほどに予想を外さない実績がある。ルークは絶対に帰って来る。
 今夜はもらってばかりだ。
 何でもいいから返したいと思いこれからの予定を聞くと、アッシュは眉をしかめた。久しぶりに見る眉間の皺にうれしさを覚えるのは重症だが、実際のところ、漆黒の翼はみんな同じ状態になるだろう。

「さすがに一週間も留守にしたから、そろそろ帰らないとシンクに拗ねられる」
「良かったじゃない」
「何がだ」
「拗ねてくれるほど待っていてくれる人が居てね」

 子どもの成長は早い。
 自分たちの贈ったパスワードが必要なくなったことにうれしさとさびしさを覚えがなら、ノワールはグラスを掲げる。

「乾杯」





ルーク帰還直前。
ルークオンリーで買った本の影響で、アッシュとノワールの絡みを書きたくなった突発ものを発掘です。
パスワードについては単純で
銀の馬→ギンジとアルビオール(鳥とか翼にできなくてギンジはショック)
黒の騎士→漆黒の翼
赤の女王→アッシュ
です。
アッシュはノワールが「黒の女王」、自分が「赤の騎士」に該当すると思い込んでいるのであべこべになっていると判断しています。
自分が女王だとは屑ほども思っていません。私の脳内設定では彼は基本的に女王様気質ですけど。
その結果が文中の発言、「よくわからない」になっています。
にしてもノワールの口調がそれこそよくわからない……。

<2008/02/10>






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