肉を斬る感触は未知。 肉を斬られる感触は既知。 イオはたしかに立場としては『剣』だった。それゆえに現実の剣をふるう機会はなかった。 彼の預かる『剣』とは直接に肉体を切り裂くものでなはい。 もちろん彼も幾度となく戦場へ出ている。導師をつとめていた期間から、カンタビレとして生まれ変わったあとも。血の臭いも、肉が焦げる臭気も、断末魔の悲鳴も。当然、生み出したことがある。だが、彼の真髄である術による遠隔攻撃でだ。護身用にナイフを持つこともあったが、実際に使うことはなかった。 今までは、それでよいと思っていた。利己的な理由もあったけれど、他のふたりがそれを望んでいたのを感じていたからだ。 口に出して言われることは決してなかったが、六神将として前線に身を置いていたアッシュとシンクが、イオを可能なかぎりそういった場面から遠ざけておこうとしているのを知っていた。 そして、今だ。 握りしめるのはローレライの剣。普段はイオに溶け込んでいる彼の核は、しっとり吸いつく感触で、イオの右手に収まっている。 イオの視線の先には、ひとりの男が横たわっていた。 まるで、無防備に。 まるで、生け贄のように。 「おまえのタイミングでよい」 赤と金の髪を広げて、彼は言う。 「だが、できるかぎり早くだ。明日の朝までは待てねぇからな。……すまない」 「アッシュが謝ることではないでしょう」 古代イスパニア語で刻まれた譜陣。かつてユリアがローレライとの契約で用いたそれは、アッシュの――ローレライの記憶から引っ張りだされたものだ。最終的に地核に閉じ込められるハメに陥った元凶ともいえる陣にさらにアレンジを加えて、アッシュの守備力をマイナスにまで落としており、非力なイオでも彼を楽に貫ける。 「しかし……」 これからイオがやらなければならないことは、動作としては殺人と変わらない。 横たわるアッシュを、手にした『ローレライの剣』で貫き、譜陣の中央に縫い止める。 「俺が自分でできればよかったんだが、……すまないな」 「そんな!」 「最初は簡単だと思っていた。それがこのざまだからな、情けねえ」 決して、自嘲することではない。 アッシュはルーク=フォン=ファブレとして死を迎えている。神託の盾のレプリカ兵たちの刃で串刺しにされて。 アッシュ自身は言葉にしないが、そのときの苦痛を思い出して動けないというのは、生き物として至極まっとうな反応だ。 そんなに申し訳なさそうな顔をされると、自分がいかに我が儘であるかと思ってしまう。 これまで、さんざん二人の好意に甘えていたのだ。二人がいくら適材適所を唱えても、自分をかばっているようにしか思えない。特に役目を代わることを希望したシンクは、アッシュに対する思い入れも含めて無理をさせたことが伝わってきた。 これくらいできなくてどうする。 イオは唇をきゅっと噛んだ。 握りしめる柄に汗は滲まない。彼の決断を催促しているかのように。 時間はあまりない。 ヴァンがこの時代のローレライを取り込む前に、ローラ=アシュレイ=カンタビレという器ごと未来のローレライを固定しなければ、いずれあの男は流れ込む第七音素からローレライが複数存在することに気がついてしまう。 そうなれば、ヴァンは搾り取れるだけの第七音素をカンタビレから奪うだろう。 カンタビレが知らない、ありえない歴史。 防ぐための方法は、きっとこれしかないのだ。 ローレライを音素収束の性質を持った剣で固定し、ヴァンがルークたちに倒されるまでずっと、この地に縫い止めるという、アッシュが提案した方法しか。 ならば、剣たる自分の役目を果たさなければ。 導師としての機能を十分に果たせなかった、あの後悔を繰りたくないのであれば。 「アッシュ。すみません」 ゆっくりと剣を目の高さまで持ち上げた。 「俺は斬られ慣れているからな。謝る必要はない」 淡々と述べられた言葉。 緑の視線はまっすぐに凶器を見つめている。 どうということもないことを示そうとしているのかもしれないが、イオにとってそれは、審判の目に等しい。 この瞳は、最後まできっと閉じられることはないだろう。 イオも負けじと見つめ返した。 ここで瞳を逸らすのはカンタビレへの裏切りだと思った。 さあ、断罪の剣を下せ。 そのときカンタビレはシリーズ。 このシリーズで考えた、本編にカンタビレが出てこなかった理由です。 ローレライとしての音素を保守するために、ちょっと串刺しになってました。 <2007/10/10>
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