起きて、誰もいないと妙に不安になることがある。 目が覚めて最初に見えたのは何の変哲もない天井。首を回して窓を見れば、明るさから昼頃だとイオは見当をつけた。 体を起こそうとして、まるで鉛のように重くて自由にならないことに気がつく。そのだるさは知らないものではない。知っているものだからこそ、それを経験した過去を思い出して得体のしれない不安に襲われた。 いや、そもそもが、自分はイオ=カンタビレと呼ばれる人間なのだろうか。 導師イオンではなくて? あんな、あまりにも都合が良すぎる現実があるのだろうか。……願望が見せた夢なのではないだろうか。 自らの手を見つめる。 記憶にあるそれと同じか、それとも大きくなっているのかなんてわかりやしなかった。 鏡はないだろうか。 自分の姿が14歳ではなく、れっきとした18歳のものであることを確かめる為の。 重力に従おうとする体を叱咤して、のろりと起き上がろうとしたときにノックもなく扉が開かれた。 そこに立つ人間。 己の……鏡。 「ああ、起きたんだ?」 片手の盆のうえには何やら湯気のたつ物体が乗っているようだ。 彼は軽やかにベッドサイドに近づくと、すとんと傍らの椅子に腰かけた。 「無理しないほうがいいんじゃないの?」 「……シンク」 惚けたような呟きに、それこそアッシュのようにシンクは眉根を寄せた。 六神将であった頃よりも明らかに成長した姿。仮面もないし、髪だって長い。 それにひどく安堵する。 「何?人がせっかく昼食を持ってきてやったっていうのに」 「いえ、……ええと、僕はどうなっていたんでしょう?」 なんでもないと言おうとして、他の話題にすりかえた。 「アッシュのところで倒れてたんだよ。で、ボクが回収してきたってわけ」 「アッシュの護衛は?!」 「いざとなったら自分でなんとかするってさ。それよりも、アンタの方を優先しろっていわれた」 そういわれてしまえば、シンクも従わざるを得ない。どれほど彼のなかでの優先順位が逆転していてもだ。 知っているから申し訳なくて、身を縮こまらせたイオの額に片割れの手が伸びる。 「気にすんじゃないよ」 「……」 「アンタが倒れたのは、アッシュの術に『ローレライの剣』を使ってるから。体から取り出して、アッシュに渡してるから。分かってるんだろう?」 昔みたいな、体力の劣化ではない。 「はあ、まあ」 曖昧なイオの返事に、シンクは不機嫌に口を曲げた。 気分が降下しているのが本人もわかっているのだろう。誤摩化すように湯気のたつマグカップをイオに差し出した。 中身はホットミルク。口をつければほんのりと甘みが広がった。彼にとってちょうど良い糖度。 導師として生きていたときは、体長不良で倒れることは日常茶飯事だった。目覚めれば誰もいない部屋で、やっとのことで呼び鈴を鳴らせば侍医が来る。与えられるのは薬だけ。生かされているだけでも感謝しろと言わんばかりの事情を知る者たちの視線。 シチュエーションだけ見れば似たようなものなのに、まったく違うことが嬉しくてしかたがない。 倒れて身動きもあやしいというのに、だ。 「まったく、気に入らないったら。アンタはボクができないことをできるんだから」 音素を収束するのは剣の役目。 アッシュは、ダアト式譜術を始め、術により戦闘を組み立てるイオにローレライの剣を持たせた。対して、少しでも術によるダメージを軽減できるようにと体術中心のシンクにはローレライの宝珠を。 それぞれの戦い方にあわせた単純な選択だったが、そのためにほとんどアッシュ本人のために動けないのがシンクとしてはもどかしいのだろう。 しかも、それだけではない。このいつになく絡んでくる、拗ねた調子だと「お前がいると音素が拡散する」とか追い払われてきたに違いない。 イオにしてみれば、気を遣わずに倒れたイオの世話に専念できるようにとのアッシュの心遣いだと明らかなのだが、シンクはそれをストレートに受け取っているらしい。 ここは誤解をきちんと訂正して、ひとりきりのアッシュのほうへ送り出してやるのがいいんだろう。 けれど。 「いつまでいてくれるんです?そっちの動きは?」 「追っかけてるのは小康状態だから……」 どうやらシンクの仕事は一段落しているらしい。ただ、そわりと視線が逸らされたのは、ここにはいない彼らの要を心配してのこと。 それを見てイオは決意する。 「じゃあ、僕が完全回復するまで一緒にいてくださいね」 途端にシンクが何とも言えない顔をした。 ああ、いい気味かも。 目の前で倒れている片割れよりも別を気にかけるような薄情な人間にはこの程度の罰はゆるされるだろう。 自分にとっては当然の権利で、彼にとっては当然の義務を主張するだけなのだし。 これだけは譲れないと、ちょっと勝ち誇った声音になる。 それでもその行為の子供っぽさが恥ずかしく、もう一度ベッドに潜り込んだ。 耳を覆う程に引っ張りあげたブランケットで、吐かれるであろうささやかな溜め息も文句なんて聞きたくないと念のために遮断する。 白い視界の中、あやすように頭をなでられた。 「どんなものが出てきても、全部食べてもらうからね」 立ち上がる気配。けれども言葉から、きっと厨房へ行くのだろう。 扉が開く軋み。 「馬鹿な夢見て気弱になってるんじゃないよ、イオ=カンタビレ」 呼ばれた正式な名前にどきりとする。 「しばらくおとなしくアンタに独占されてやるよ」 ああ、見抜かれている完全に。 けれどもあるのは恥ずかしさよりも嬉しさ。 口が裂けても言えないと反射で思い、すぐに翻す。 彼が戻ってきたら、素直にそのまま言ってやろう。 そうされたときの彼の顔こそ見物だろう。 満ち足りた気分に眠気がかぶる。 いい夢が見られそうだった。 めずらしく弱気なイオとイオに対してめずらしく強気なシンク。 ……ここまで弱くならねば勝てない程に強力なのか、イオ=カンタビレ。 シンクが持ってくる料理は、完全にイオの好物ばかりです。ただ量が半端じゃないという微妙な嫌がらせ。 <2007/5/6>
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