どうしてこの体は動くのだろう。
 消えてしまうことを望んでいたのに。
 それとも、こんな世界に溶けるのが嫌だったのだろうか。そうかもしれない。
 ――でも、だったら。
 あのまま『目覚めない』選択を、どうしてできなかったのだろう。


***

 耳鳴りがする。
 導師イオンから渡された地図を頼りにアッシュたちは雪の中を歩いていた。
 今回、身の安全のためとの名目でイオンは同行していない。代わりに導師守護役がふたり、彼らに従っていた。導師守護役と聞いて、アリエッタを思い出したが、そうではなかった。彼女は導師のお気に入りだから、別行動をとることは滅多にないのだという。
 魔物の気配はない。彼らは気配に聡いから、アッシュたちの、または討伐対象となっている魔物のそれに怖れて姿を消してしまったのかもしれない。
 しんとした空気に、音が吸い込まれる。
 耳鳴りはそのせいだろうかとアッシュは思う。
 歩き出してすぐ始まったそれに、苛立ちを感じる。どうして、なんで。
 それだけではなく身に覚えのある感覚なのだ。

「もうすぐ現場です」
「わかってるよ」

 導師守護役の少女はシェリーと名乗った。先日、件の魔物に襲われた人間を助けた際に、その魔物を目撃したのだという。
 苛立ったように答えるシンクの声と比例して、耳鳴りがひどくなった。

「足跡もねえな。ケテルブルクじゃ仕方ないかもしれんが」

 毎日のように雪が降り積む土地では、足跡は簡単に消えてしまう。

「そうですね。ただ、私の推測が正しいのであれば、あまり遠くへは行かないと思います」
「その根拠は?」
「思い違いかもしれないのですが……」

 前置きをして、シェリーは意見した。
 自分はこの土地の魔物に詳しくはない。が、この土地に生息する魔物に当てはめようとするならば、それは形だけは「アイスウルフ」に近いのだという。もし、彼らの類縁であればテリトリーがあるはずだ。

「ただ、あくまでも『近い』だけですから……常に群れで行動するアイスウルフとは違うかもしれません」

 不安げに彼女は付け加える。

「用心するに越したことはないか。……おい、シンク、あんまり離れるんじゃねえよ」

 話しているあいだにずんずんと進んだ少年へ声を張り上げれば、つんとした顔で彼は振り返った。しかし返事はない。
 仮面のない素顔が、新鮮だ。
 途端に耳鳴り。
 こめかみを軽く押さえて、アッシュは思い返す。
(ああ、これは)
 ――に似ている。


 しばらく歩いても、目当てのものは見つけられなかった。少人数とはいえ、武器を帯び、体制を整えてきた人間に警戒したのだろうか。
 ロニール雪山と違って、ここはまだ樹木が少ない。見晴らしは良い。
 だが、日が傾きかけて気温も徐々に下がってくれば、獣型の魔物を相手にするには不利だ。
 色を変えていく空を見ながら、出直したほうがいいとイオは思う。
 これだけ歩き回っていて不思議な事に疲れは感じなかった。以前の自分であれば確実に倒れていた。
 それでも無理は禁物だ。そう言おうとしたときだった。

「アンタ、ばか?!」

 怒鳴り声と同時に、雪のなかに引き倒された。
 と、ついさっきまで自分の頭があった辺りの高さを真っ白な影が音もなく飛び越えて行った。

「シンク……」

 呼び声には溜め息だけだ。

「ありがとうございます」
「生きたいんだったら、それなりに気を配りなよ。どうしてあの物騒な気配に気がつかないんだか」
「はあ……」

 まるで自分はどうでもいいとばかりの言葉だ。
 今の一撃でアッシュたちとのあいだを分断されたかたちになっているのが辛い。なにせ元六神将コンビはともかく、それ以外はまさに組んだばかりの寄せ集め。とっさの連携など望むべくもない。

 間に降り立ったアイスウルフは……いや、アイスウルフといっていいのだろうか。とにかく大きい。普通の大きさの三倍はある。一頭なのか、あるいは。

「シンク」

 遠く、アッシュから呼びかけ。

「大丈夫、一頭しかいない」
「そうか」

 よくわかるな、との表情が薄暗い中でも読み取れた。シンクの感知能力はもとから六神将内でも頭一つ飛び出ていた。

「変異種、ですか?」
「……第七音素に汚染されているようだな」

 ぐるぐると喉を唸らせる獣を前に、アッシュは冷静に判断する。
 俺たちのせいだろう、とのアッシュの心の声。不思議と、シンクとイオにも伝わる。
 おそらく自分たちがロニール雪山に落ちたときに溢れた第七音素に触れてしまったのだろう。自然な状況でこんなものが生まれるとは考え難い。

 これ一頭だけだろうか。疑問を浮かべれば、響くように別の声が頭に溢れた。
 そうだろう。普通の魔物であれば、第七音素を許容できない。答えは誰のものか。
 何しろローレライ……第七音素集合体から発された密度の高いそれを受け止められるものではないだろう。重ねるそれは。

 確認せずとも分かっていた。

 剣と宝珠とその主と。

 アッシュの足がじりと動いたのが、遠目でもはっきりと見えた。






 前ふりだけで終わってしまった……。
 本題は次で!
<2007/3/12>






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