積もったばかりのまっさらな雪。 ふんわりと重なった、白い結晶。 それを一番に踏みしめたいと思うのは、子供心には自然なこと。 雪とウサギと 夕方、「今夜は雪になるかもなあ」と呟いた養父の言葉に、姉と弟は顔を見合わせた。 このあいだ、この冬初めての雪がちらついたばかりだ。まだ積もるには早い。けれども、養父が言葉に出したということは、確実に明日の朝には雪景色が広がっている。 「リク、ジョウイのところへ行っておいで。明日の朝、いつものところで会おうって」 ナナミが毛布にくるまりながら、弟に告げた。 「やだよお、寒いもん」 「ばか。約束したでしょ?三人できれいな雪を見ようって」 その約束は、リクだってもちろん覚えていた。姉とジョウイと三人でした約束だ。 雪が積もったら、一番乗りで。誰かに踏み荒らされてしまう前に、思いきり駆けまわろうと。 「だったらナナミが行ってよ。ナナミの方が足、速いし」 「こんな時間に女の子が出歩いたら危ないでしょ」 「……仕方ないなあ」 こころの隅に。ナナミをか弱い女の子扱いしてしまってもいいのかと素直な疑問が浮かんだけれど、リクは溜息を残して家を抜けだした。 翌朝は晴天。真っ青な空。白い地面から冷気が刺す。 一晩だけ、だが充分な雪を落として。 なにか良いことがあるんじゃないか。いや、きっとある。理由のない期待に胸を膨らませながら、姉弟は朝の修練を終えると走り出した。 一言も漏らしてはいなかったのに、ゲンカクは心得ていたとばかりに笑っている。朝食にはきっと、からだの芯から温まるものが出てくるだろう。 待ち合わせの木の下でジョウイがぽつんと立っていた。上等なコートとマフラー、そして手袋。 「ジョウイー」 ぶんぶんと手を振りながらナナミが走る。と、実に彼女らしくバランスを崩した。後ろを走っていたリクは、姉がそのくらいで転倒するなんて針の先ほども考えていない。 しかし、ジョウイは違った。 「ナナミ!」 慌てて少女に向かった。けれども、彼女はきっちり立ち直り。ほっとしたのか逆にジョウイがつんのめった。 「ジョウイ、大丈夫?」 追いついたリクが親友の顔を覗き込んだ。まともに雪に突っ込んでいる。不幸中の幸いとしては、雪が積もっていたことで直接地面に激突しなかったことだろう。 「ああ、リク。心配するほどじゃないよ」 ちょっとだけ鼻が赤くなっているが。 「よかった」 笑うと、リクとナナミは両側からジョウイの腕をひっぱった。 「さあ、行こう!」 街の門から一歩飛び出せば。 どこまでも。見渡す限りの白。 それほど積もっているわけではない。子供の人さし指で計ったら、半分にも満たないくらい。この天気では昼前には溶けてしまうだろう。 それでも、十分。 三人はだらだらと歩く。時に雪を掴んでは、互いに投げる。 すぐになくなってしまわないようにと、木陰を選んで小さな雪だるまを作った。小枝と小石で顔を作る。 「あとは帽子だよね。なんかないかなあ」 きょろきょろと辺りを見回していたナナミの視線が、きっちりリクのうえで止まった。 嫌な予感がして、だが、心当たりもなくてリクが頭を抱える。ふと指先に金属の冷たさを感じた。 まさか! 「リク。ちょっとそれ貸しなさい」 「やだよっ。これはゲンカクじいちゃんからもらった大切なものなんだから!」 頭をかばうもナナミが迫る。ジョウイは笑って見ているだけだ。 「だから、借りるだけだってば。それにちょっとだよ、ちょっとだけ」 ナナミの伸ばした腕をひょいとかいくぐって、リクは逃げる。背後の姉に叫び返した。 「『ちょっと』って言って、ナナミに貸して戻ってこなかったものなんか、いっぱいあるよ!」 お気に入りの座布団だって、半纏だって、全部ナナミに持って行かれたままだ。一口といった大福だって羊羹だって、半分以上がナナミの胃袋へ消えている。 このうえ、じいちゃんからもらった自分のトレードマーク、『金のわっか』まで奪われてなるものか。しかも使用者はナナミ本人ではなく、儚い命の雪だるまである。 ナナミとは違って、自分はユニコーン少年隊の一員として、軍の訓練にも参加している。そう易々と捕まりはしない。 でも、この鬼ごっこをいつまでも続けるのはごめんだ。なんとか姉の気を逸らさなければ。 素早く地面に視線を這わせたのは、なにか彼女の興味を引くようなものが転がっていないかと考えたからだ。 汚れのない白の絨毯。 なにもない。 ああ絶体絶命。 目の前に闇がおりる錯覚を遮って、あざやかに小さなコントラストが飛び込んできた。 神の救い! 「ナナミ、あれ!あれ見てよ!」 「ほえ?」 間の抜けた声を上げたナナミの注意がそれる。よし。 「なに、なに、これ」 くるりとナナミが地面を覗き込んだ。 「あしあと?」 ぽんぽんとまるいふたつ。短い狭い逆ハの字のライン。それが規則正しく雪を踏んでいた。 「ああ、ウサギだね」 ジョウイが後ろから告げた。この特徴的なあしあとは、一目瞭然だった。 「え、ウサギ?わあ、見たい見たい。よおし、あとつけてっちゃおう」 俄然ナナミが張り切った。どうやら雪だるまのことは頭から零れ落ちたようだ。 「ナナミ、ウサギがめずらしいの?」 「うーん、冬のウサギがめずらしいの。だって、雪と同じで真っ白になっちゃうんだもん」 保護色のせいで、真白なウサギを見たことはなかった。 これはチャンスだ。 真剣な顔であしあとを辿る。せっかく近づいても驚かせてしまったら元も子もないと、彼女はおしゃべり厳禁の令をくだす。 しんと音を吸収する雪の原を、三人は連なって歩く。 途中、ウサギのものの他に、あしあとが増えていた。言おうか言うまいか。考えながらも、ナナミの言葉には逆らえずに、リクとジョウイは困惑の視線をかわした。 どちらにしろ、モンスターの足跡でないことはわかっている。 ずんずん先を進んでいたナナミが立ち止まった。 「ナナミ?」 抑えた声で問いかければ、ナナミは地面を指差した。 「なくなっちゃった」 不自然に、忽然と、あしあとは消えていた。もちろん、まだまだ雪原は続いている。だが、その傍らには迷うようにぐるぐると獣のあしあとが続いていた。 「キツネに追いかけられてたんだ。だから、行方をくらましたんだよ」 「どうやって?」 「ウサギはね、追いかけられているのに気がついたら、そのまま走ってから、わざと自分のあしあとを丁寧に踏んで戻るんだ。 ちょっと戻って、敵に見つからないように、そばの草むらに飛び込む。敵は騙されたまま、先へ進んでしまって獲物を見失うんだ」 「ちょうど今のナナミみたいだね!」 ジョウイの丁寧な説明の尻馬に乗る。それがリクにとっては結果的に凶と出た。 「ちょっと、なによー!あ、リク、そのわっか、渡しなさい!」 「うわ、やだよ。それに雪だるまだってもう溶けてるよ」 「そんなのわからないでしょ!」 「ジョウイ、笑ってないで助けてってば」 「頑張れよ、リク」 子供たちのじゃれ合いは、太陽が溶かした雪のおかげで泥だらけ。 それで、結局、ゲンカクじいちゃんに怒られたんだよねえ。朝ご飯に遅れて。どこまで行ってたんだって。 雨戸を開けて、視界いっぱいに広がった風景を見ながら、ナナミは思う。 キャロの街に戻って、一か月も経っていない。あの城に弟を置いてきて、たったそれだけ。ひとりで見る景色が寒い。 冬の景色が寒いのではなくて。 この雪が溶けて、さらに降って積もって。 そして暖かくなれば。 また戦が始まるのだ。 最後の戦。彼女が絶対に見たくない戦。 けれど。 「ジョウイの顔、ひっぱたいて戻ってきてね」 きっとジョウイはリクに勝てない。彼は優しすぎる。 最後の最後まで大切なものはひとつも手放さない決意を固めたリクには、大切なもの全てから身を退く優しさをもつジョウイは勝てない。 たとえどう繕おうとも、彼らはハイランドを滅ぼした都市同盟の盟主と皇王になる。 そんなふたりを許容できるほど、キャロの街は広くはない。 だから。 そうしたら、三人で旅に出よう。 誰も彼らのことを知らない、だからこそ優しい土地を巡ろう。 死んだことにしてまで行方をくらました、自分の浅ましいまでの、でも真実の願い。 彼女にとっての戦が終わるまで、それまでは。 雪野原を逃げたウサギでいよう。 |